無花果ジャムサンドの国
初出:2019年11月17日
現パロ合同誌 『いしごはん』寄稿
鍋の火を落として窓を開ける。初秋の夜のつめたさは肌の火照りを鎮めても、今しがたの衝撃を和らげるには至らない。古いラジオカセットからコマーシャルが流れ始めると、食卓に置いたままの端末が震えた。
「もしもし、シンシャ?」
声の主には、即座に見当がついた。
「ダイヤ。今、平気なのか」
ダイヤモンド。むろん芸名だ。先刻オンエアしていたばかりのローカルラジオ番組の看板パーソナリティ。恋愛相談コーナーに定評があり、長年の熱心なファンと、きょうだい想いの弟を味方にして、息の長い活動を続けている。シンシャとは同じ学校の出身で、ざっと十年ほどの付き合いになる。
「あとは仮眠だけだもの。いつも遅くまで聴いてくれてありがとう、シンシャ」
シンシャ。子供の頃のたわむれの名残が、自分にもペンネームムという形で息づいてしまっていた。
「じゃあさっき読んだお便り、あれ、シンシャなら誰だかわかったでしょ?」
逡巡が口を重くした。端末を片手に台所へ戻り、鍋に再び火をかける。赤い果肉の液面に、瞬く間にあぶくが沸き起こり、甘い湯気が立つ。その頃には、もう覚悟を決めていた。一音一音、口にする。ゆっくり、たしかめるように。
舌を噛みそうなその仮初めの名前を。
生まれた場所を離れて、海を望む丘に建てられた名門校の中等部への進学したシンシャにとって、『鉱物同好会』なる場所は思いがけない新天地だった。
それは新入生の歓迎会でのこと。
「――やっぱりシンシャってあなたにぴったりよね。賢者の石って言われてるんでしょ」
活動中は、互いを鉱物の名前で呼び合うのがならわしだった。昨年、満場一致で"ダイヤモンド"を授かった美貌が向けられると、弟の"ボルツ"の視線も突き刺さる。
どこからか、ずい、とシンシャの目の前に少年が突き出されてくる。小柄で痩せぎすの、抜けるように白い肌。色素の薄い短い髪に、かすかな怯えに翳る大きな瞳。
「初等部からの子かあ」「身体弱いんだって?大変だねえ」
「でも部活には入んなきゃだめだもんね」
どこからか補足説明が入り、シンシャの両肩を"ベニトアイト"ががっちりと掴ん
でくる。全員が共犯だ。これまで『名づけ』の輪を遠巻きにしていたシンシャに無理にでもお鉢を回す向きらしい。観念して、押し付けられた図鑑を受け取り、ページを捲る。
「そうだな。じゃあ、おまえは、……」
全員の注視を受け、指がもつれる。
硬度三.五。劈開は完全。いかなる利用も拒む、ひたすらに美しいばかりの、浅瀬の海の一欠片。
「フォ……フォスフォ、フィライトだ」
「……舌噛んじゃいそう」「もう噛んでたよ」「なにそれ? どっから引いてきた? 創作?」「アレキじゃないんだから……」
ふたりと図鑑を囲む輪がどんどん小さくなる。
「フォス、でいいだろ。……脆くて、弱そうで……でも、きれいで……」
俺は気に入っている、とまで口走りそうになり、慌ててそっぽを向くが、これではけなしてばかりだと気づいて、咄嗟に顔色をうかがう。フォスは口元を抑えて震えている。泣くか、と焦っていると、なぜか笑い声が漏れ聞こえてくる。
「意外と、」
怯えていたはずの瞳は、もう好奇心にきらめいていた。
「……落として上げるタイプ、なのかな、シンシャ先輩ってさ」
無性に腹が立って、「ばか」と肩を小突いたら、一段とくすぐったがるような声が上がった。
「――たしかフォスが入学する前から文化祭で配る会報誌を作り始めたじゃない? それもボルツが言い出したのよね。あのこ、僕に黙って刃物の研究してたのよね。採掘とか研磨とかで使うような。結局進路もそれで決めたぐらいだったわね。で、それをまとめたレポートをシンシャに渡して、『本にしろ』って言ったのよね」
「あのときボルツは何も言わないで突き出してきた」
「もう、混ぜっ返さないで! 心で声を聞いたのよ、わからない?」
「……だから俺が鉱物の出てくる小説の紹介と書評も足した」
「で、中等部の入学前にそれを読んだフォスが『僕、いままで本なんか嫌いだったけど、この記事で紹介された本はみんな読んだよ。すごく読みたくなるような紹介だったから』なあんて」
顔から火が出るような心持ちなのは、ダイヤのとろけるような声色で再現されたから、だけではないだろう。
「ああ……もう大概にしてくれ。まだ昔話の気が済まないのか」
「いいじゃない、すてきよ。あれから活動もすごく楽しくなったし、みんな、あなたの文章を心待ちにしてたのも事実だし。……それに、まだ信じてるんでしょう」
ダイヤの瞳があの時と同じように、長い睫毛の下で物思わしげに揺れているのを、湯気の向こうに思い描く。
「あのこが今もどこかでシンシャの記事を読んでいてくれているのかもって」
琺瑯引きの白い鍋から、木べらを持ち上げる。どろりと流れ落ちる果肉混じりの赤くつややかな液体に魅入られ、冷ますのも忘れ、誘われるように滴りを口に運ぶ。焦げるような熱さのあと、深い森の香りが鼻腔に広がり、甘みが舌に絡まる。
鍋の中身が煮詰まるには、まだ時間がかかりそうだった。
――体温と、脈の速さ。制服の布地。自分の纏う塩素の匂い。相手の纏う汗の匂い。昼の暑さを帯びた潮風。いくら洗っても鉛筆汚れの取れない、クリーム色のカーテン。
離したばかりのくちびるを、ぺろりと舐める。かすかに、自分のものではない体温と唾液を感じる。
「……シンシャ、ごめ、僕、我慢できなくて」
必死に謝るフォスの声を、夢見心地の頭で聞いていた。
シンシャが高等部に進級した夏休み、初めてフォスとをくちびるを重ねた。シンシャのプール課外のあと、誰もいない部室で、補習の課題を教えていたときだった。
それからは堰を切ったように、恋人同士の真似事を重ねた。
ある日は、シンシャの家で不恰好なクレープを作って、軒下に座って食べていた。食べ終わったフォスがおもむろに指差す。
「この木、なんの木?」
「無花果と聞いている」
「じゃあさ、秋になったら実が成って収穫とかできるの」
「やめておけよ、酸味が強くて食べられたものじゃない」
ふうんと言いながらフォスは庭に降りて、そっと幹を撫でた。
「でも、どんな味がするんだろ。いつか食べてみたいなあ。酸っぱいならジャムにしてみたいな。サンドイッチとか作っちゃってさ。あ、そしたら……」
フォスは次々と他愛のない未来予想図を口にしていたはずだった。記憶がおぼろげなのは、絡んだ腕の温もり、柔らかな髪からふわりと漂う自宅の石鹸の香り、溶けたチョコレートの付く口許。そんなものにばかり気を取られていたからだった。
シンシャが卒業する年の冬休み明け、血相を変えたダイヤに腕を掴まれ、部室まで連れてこられた。すでに他の会員は揃っており、一様に沈鬱な表情を浮かべていた。
重い沈黙の中でダイヤは口火を切った。
「――フォス、やめたの、学校」
ダイヤはそれだけ振り絞るように発すると、うつむいた。誰に聞き尋ねても、フォスの痕跡はどこにも残っていなかった。
それから、シンシャが本格的な執筆業に身を置くと決めても、生活の拠点をかつて通っていたあの海を望む学校のそばに戻しても、フォスの行方は依然としてわからないままだった。
「――ねえ、シンシャ、いま家なの? これからどうするの?」
滅菌した耐熱容器に無花果のジャムを注ぎ、サンドイッチ用のパンに塗る。食べやすいように切り分けて、久しく日の目を見ていなかったランチボックスに収めた。
「もう出る。ジャムができたから」
「……ジャム? なんで、いま?」
「……約束をしている。あいつと」
濃いめに淹れ、砂糖をたっぷり溶かした紅茶のポットと、少し考えてクッキーの缶も鞄に放り込み、最低限の携行品を確認する。玄関の姿見に映った己のスウェット姿を目の当たりにしてたじろいだが、あきらめて髪をわずかに整えるだけに留めた。
「海に行くなら、甘いサンドイッチを作ってやるって」
『"ダイヤモンドのMidnight Lunatic Radio"、今週もそろそろお別れの時間です。最後はリスナーのみなさまからのお便り紹介のコーナーです。今週のお題は"一番楽しかったデートは?"でした。さて、……市にお住いのラジオネーム"硬度三半"さんからのお便りです。"ヘイ、マイダイヤモンド、今日は地元まで戻ってきたから、初めてお便りなんて送っちっいます。さて、僕にとっての楽しかったデートは、なんと実現しませんでした。なぜって、逃げたから。どうしてか、うまく言えないけど、あのときの僕ではきみにうまく向き合えなかったから、かな。あれから、ようやく生まれ直したつもりでいる。だから、きみのよく知っている僕とはかけ離れてしまったかもね。それでも、僕のひどいわがままを、また許してくれるなら。シンシャ。もしこれを聞いていたなら、あの浜に来て。あのときのデートの続きをしよう"』
思いがけない風の冷たさに、肌が粟立つ。舗装の剥げた道を小走りに急げば、鞄に詰めた荷物が賑やかに音を立てる。浜への湿った階段を下りるごとに、潮の香りと波の音が強まる。薄暗い浜辺で目を凝らし、ようやく見つける。
岩場へ延びる、真新しい足跡を。
おそるおそる、隣を歩む。
けっして、見失わないように。
夜明けの陽が、淡くひそやかに、わずかな道行きを照らす。