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​白黒の正気

​初出:2016年1月1日 03:03

パパラチアとルチル

39話後を想定。

 身体が重い。

ルチルはネクタイを締めた襟元を緩め、壁にもたれかかりながら、陽のとうに落ちた空を見つめた。
末っ子が直しても直しても立て続けに割れた。そこに"ゴースト"の成形が加わり、眠らない日は五回を数えたところか。
今、ようやく診察台が空いた。ルチルは背伸びをして、腕を回したり屈伸する。
神経を研ぎ澄ます作業が続くと、どうにもインクルージョンの不満が募るらしく、騙し騙しでやっている。
しかし暫く平穏は壊されないだろう。これでようやく落ち着いて彼に会える。

毎夜の日課。パパラチア本人にはけして届かない逢引き。

このところ緒の浜に行けていないので手土産はない。ただそこにいるか、確かめたかった。

無論彼がそこにいるのは当然の帰結だ。

 ルチルは備え付けの棚の下から箱を引き出す。日頃はどうということはないが、疲労の溜まった身には中々骨の折れる仕事だった。
だが彼に会えるなら苦ではない。

 こんばんは。と挨拶をしながら、箱を覗き込んだ。唇が妙な形をして止まる。
箱は空だ。
始めから何も納めていないかのような顔をして、ぽっかりと、まぬけな空白で満ちていた。

眼前が暗黒に苛まれる。頭から割れた者の感覚はまだ知らないが、きっとこれに近いのだろう。
医務室の周囲を素早く見回す。当然パパラチアの影はない。

では、どこに。
校内をふらふら出歩いていようものなら、いの一番にルチルに伝わるはず。
まして、何某かが勝手に連れ出すわけはない。その様な輩が居れば鑿で粉にしてみせよう。

 草を鳴らして、思わず顔をかばうほど強い風が医務室に吹きこむ。
激務の最中でも整っていた髪が、いともたやすく乱れる。
誰かに、雑に撫でられているかのような感覚でもあった。

 気づけばルチルは医務室を背に歩み出していた。風の吹く方へ。

 すべてを呑みこむ夜には、憎いはずの月明だけが頼りだ。
冬の近づきつつある海の波は高く、飛沫を豪快にあげては砂浜を呑み、引いていく。
波は必ず沖へ戻ってゆくのだから面白い。時と場合が許せば何時までも眺めていられる。
 ルチルの向かう先は緒の浜だった。論理的に導いた仮説ではない。
説明のつかない物事に出くわして、説明のつかない『うまれる』という出来事の起こる場所へ来たくなったのだ。

砂浜には新しい足跡はなく、シンシャもここを巡回していない。
彼に訊けたなら良い知恵を貸してくれたかもしれないと、落胆の念が募る。

 ふと、目の前を何かが掠めて行った。足元に当たったそれを拾い上げる。
大きさは手のひらに収まるほど。海から打ちあがった様子はなく、新しい。存外に厚みがある。
無機物ではなく、弾力があり、何らかの有機物の一部か。桃色の紡錘形は服飾狂いのレッドベリルなら一目で気に入りそうだ。
 しかし、浜にこのような物が打ちあがったことがあったただろうか。
同時に、どこかで見覚えのある形状でもあった。月明かりを頼りに彼の姿を探しながら思考を巡らす。
頭の働きは疲労から来る眠気で鈍く、うまく到達できない。

 いずれにせよ棒立ちしている暇は無い。収穫がなければ即撤退。徹夜の重なった身体に鞭打ち、ルチルは学校へ向け駈けようとした。
その肩が、ごく軽い力で捕まえられた。

「そんな急ぐこともないだろ」

 振り返りたくはなかった。月人の新手の罠かもしれない。
彼の姿に似せて幻惑するなど、下劣極まりない。まんまと嵌まってしまうなど論外である。
けれど。
その声も肩に留まる質量も、焦がれてやまないものだった。ずっと待っていた。

 

 ルチルは振り返った。

果たして、彼はそこに居た。
 紅とも橙ともつかぬ鮮やかな髪を惜しげもなく月光に煌めき、瞳も髪と同じ色を閃かせて、ルチルを悪戯っぽくとらえる。

「今度は思ったより早く会えたな」

パパラチアはルチルの頬にかるく触れた。何気ない動きにさえ注意をはらう。ルチルは金紅の瞳を鋭く光らせながら頰に触れる指を払った。

「いちおうは本物ですね」
「なんなら割ってみるか」
「いいえ結構。で――具合は」
「すこぶる良好」

 白い手足を月光にかがやかせ、肢体を伸びやかに潮風にさらす彼は、昼の医務室の陽に当たるよりずっと生気に満ち満ちている。
医者としての自分が、ひそかに胸をなでおろした。疑いで曇らせているよりもずっと精神衛生に良い。

「どうやって棚から這い出て来たのか存じませんが、早く戻りましょう。私も限界です」
「早く解剖したくて堪らないってか」
「たしかに穴に詰め物をしていないまま起動の発端なく活動している理由は追究したいところですが、今は連日の睡眠不足の解消で頭がいっぱいです。手持ちの器具も少ないですし、おとなしく医務室までご同行願えますか」
「もっと手早く済まそうぜ」

パパラチアはどっかと砂浜に胡坐をかき、あろうことか、ここで眠れ、と手で示す。
俺が添い寝しててやるから、とも付け足す。

「枕がなければ眠れないんです」
「ルチルはかわいい。なんといっても嘘のつき方がかわいい。俺も見習おう」
「いつあなたが私に」

 

 つまらない茶番を遮り、パパラチアはルチルの手を自らの襟元へ導いた。
その動作の言わんとすることに自信が持てず、見つめていると、パパラチア自らがネクタイを解いた。
あとは我関せずとそっぽを向いている。仕方なくルチルがシャツの釦を外してゆく。
すべて目で追われているのは知っているので、どうにも指先がもつれる。
じきに全てを外し終わり、胸元を開く。
 彼に開いているはずの胸の穴は、全て花で埋めつくされていた。先刻足元に落ちてきた花弁そのものだ。
穴は蕾や満開の花が咲きこぼしている。
 ルチルはようやくその花をどこで見たのか思い出した。

それはアレキサンドライトが見回り組から聞き出した月人に関する膨大な報告書の挿絵だった。
それは月人の傍らで、あたかも花のように咲く。武器ではないが、種類や身体の大小に関わらず月人の共通の意匠として現れる。
それが斬撃や突風でさも本物の花弁のように舞い散る様に美と醜の境目を見るようだ、とレポートはやや叙情的に締めくくられていた。

「はなっから、こいつがあれば、石なんて嵌めなくてよかったのさ。どうだ、綺麗だろ」

ルチルの絶句をよそにパパラチアは自慢げに胸をさする。

「月人の纏う花でしょう。あまり突飛なセンスはいただけませんね。今すぐその手を叩き割りたくてたまりません」
「かわいい顔して剣呑だな。こいつは元々大きな葉を持った、水の中に生える草だ。
それがどういうわけだか、俺を気に入って身体中にこいつの根が張った。
俺を肥やしにして、もう葉も出さないつもりらしいな」
「月人の真新しい罠でしょうか。なおさら皆に早く報告しなければ。それに、やはり私は眠るべきです」
「何故」

「悪い夢であって欲しい。
こんな汚らわしいものがあなたを蝕んで、それをみすみす許してしまっていたなど、到底受け容れられることではありません」

[

 パパラチアは、くつくつと喉を鳴らして笑う。

「汚らわしいときたか。おまえなら喜ぶと思ったのに」
「ええ、汚らわしいことこの上ありません。ですからありったけ引きちぎって連れ帰るだけです」
「見ての通り、体調は上々だ」

 彼は徐に立ち上がる。傍らに放り捨てた大剣を無造作に手に取り、すらりと鞘から抜く。
鞘を放り捨て、海風を鋭く斬る。
あるはずのない液体がひやりと背中を何かが伝っていく感覚。

「――いくらだって動き回れる。眠ってなんていられないほどに」

 

 波は思い切り岸壁にぶち当たり、白く砕けている。
こうしているうちにも強固な岸壁は削られ、取り出せる部品や未だ見ぬ仲間も、知らぬうちに徐々に海へ沈んでゆく。
なぜ海は永遠に凪いでいられないのだろうか。

「だが、この花が全身に咲くようになれば、俺は根に絡め取られて動けなくなる。
俺が俺だと分からなくなり、動くことも、おまえと話すこともままならなくなる。
もしそうなったなら、おまえ、どうする」

 波音や風音が耳に入らなくなった。
パパラチアは自分を鋭く責めるような眼光をまっすぐ受け止めながら、豪快に笑った。

「視線で砕けちまいそうだな」
「少しは冗談の腕も磨いたらどうです」

 

 彼は剣を納め、ふたたび砂浜にごろりと寝転ぶ。ルチルはそれを見おろす。砂や海水の飛沫は髪の傷みの原因になる。
「敷布を持ってくるべきだったって思ってるんだろ」とパパラチアは言う。
「いけませんか」と尋ねると、いいやちっとも、と首を振った。ではなぜ聞いたのか。
 真剣に考えるだけ馬鹿馬鹿しくなり、ルチルも倣って砂浜に身を横たえる。潮の冷たさが、かすかに首筋に伝わる。

「花はいつ散るのですか」
「おまえの眠っているうちに」
「それなら散らないように見張っています。ずっと起きています。眠りなど忘れます」

 パパラチアはルチルの顎に指を添えた。
あまりにやさしかったので、とろりと絡めとられてしまいそうだった。

「おまえ達は忘れているかもしれないが、物事には終わりがかならず来るんだ。
花や木は枯れる。水は干上がる。虫もクラゲも死ぬ。陽も登らなくなるかもしれない。全てのものは朽ちる。
おまえはじきに眠る。そして俺は花の餌になる。
始まりを決められないのなら、終わりくらい俺で決めさせてくれよ」

 

 今は潮が引いているのか、それとも満ちているのか。

ルチルはパパラチアの躯体に跨って、彼を見下ろした。
整った顔貌に影が落ちている。瞳を月のもたらす光が微かに透かす。
ついで、花で埋められた空洞に手を滑らせた。すべらかな穴の縁にはなるほど植物らしい根か茎が張り巡らされている。
パパラチアは僅かに喉を反らせ、吐息を漏らした。

 私は常々思っているのです、とルチルは彼の胸をまさぐりながらパパラチアの耳朶のそばで囁く。

「あなたの胸に私の手脚を砕いて埋められればと。そうできたらどんなに幸せかと。
けれどそれはしない。しないものなのです。
なぜなら私達がほかでもなく現実に生きているからです。
あなたは本物のあなたではない、そうでしょう」

 パパラチアはただ、だまってルチルの金紅の瞳を見ていた。

「かまわないのです。あなたが月の罠だろうと、まやかしだろうと。
ただ一つ本当なのは、あなたが私を置いてどこかへ行こうとしている。妙な花と一緒に。
それだけは、許せない」

 パパラチアはルチルの額をいとしげに撫でた。

「そうだ。俺はかわいいルチルを置いてゆこうとしているのさ」
「どこへ」
「知らないさ。俺は臆病なんだ。おまえより長く生きて、おまえのお蔭でのうのうと眠りこけているっていうのにな。
何もわからない。それがために、どうにもこわいんだ」

 

 ルチルの右手は彼の腰へ導かれる。掌に小刀が握らされる。柄から切っ先まで、黒光りしている。

それで俺を一思いに割ってくれないか、ルチル。パパラチアが言う。

ルチルは小刀の重みをたしかめながら、彼を抱き起す。
鎖骨から、慎重に切っ先で撫でてゆく。首からあるはずのない脈動が伝わった気がした。

白い首筋に注意深く力を込める。僅かに一筋、地肌がのぞく。
彼の睫毛の色。あるいは彼の瞳の色。あるいは彼の髪の色。あるいは彼の爪の色。

「ちゃんと叶えてあげます。ですから」

 だまって、私を見ていてください。私だけを。

 

 ルチルは彼の瞼の上に唇を落とす。硬質な音。しかし、罅ひとつ入らない。
瞼はゆっくり開かれる。
光を潤ませた形のよい瞳。
そうだ。あなたの目玉はその胸に咲く花と同じ色をしている。

音が戻って来る。波の音。風の音。衣の擦れる音。
パパラチアは、やさしくルチルを見つめていた。

そうだな。こんな夜におまえを見るのも悪くない。彼は言った。


 ひときわ高く澄んだ音が響いた。
音は砕けた波といっしょになって、夜に紛れて消えて行った。

 ルチルが目覚めて最初に飛び込んできた風景は、緒の浜ではなく医務室の床だった。
パパラチアの納められている箱を引っ張り出した形で眠りこけていたらしい。

当然の帰結として、彼は箱にきちんと収まっていた。原因が無ければ結果は生まれない。
そのまま箱を戻そうとして、彼のネクタイを解き、シャツの釦を外した。
彼の空洞はきちんと空洞のままであり、花びら一枚見当たらない。

しかし、白い首筋には鋭利な刃物による一筋が浮かんでいた。
紅とも橙とも付かぬ、鮮やかな色彩。
ルチルは手早く白粉をはたいて現状復帰させた。あるいは隠蔽した。

乱れた服を整え、彼を完璧な状態に戻し、大切に箱へ仕舞いこんだ。

 抜き足差し足で医務室から出る。
いまは凪の刻だった。
朝陽がおだやかに水平線やルチルの座る浜ごと赤々と染めている。

「やはりあなたには、夜明けの陽が似合う。
月の下では花に蝕まれていては、あまりにもかなしい」

不意に、眼球の奥からか、熱のような痛みが襲った。
疲労でも眠気でも欠損でもない。内にうまれた熱い流れが渦巻く。
目の端からそれが溢れそうになり、かたくなに抑え込もうとする。
あるはずのないものと必死に戦った挙句、とうとう、痛みに耐えかねてうずくまり、せぐりあげた。

 

 これが、あの花の正体だった。

【終】

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