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​針と穴のアステリズム

​初出:2020年9月6日 11:10

9/6パパルチの日記念 2018年頒布合同誌「針と穴のアステリズム」のしえ寄稿分公開

[chapter:過日の双蝶]

 空はこれ以上ないほどの快晴でした。果てなく続くような青色が、ふだんは灰色に淀む切の湿原に一杯に映しとられて、さながら、もう一つの空のようにも見えました。その地上の空を、パパラチアが泥飛沫を上げて駆けていました。彼の足さばきはごく軽やかで、水面に小さな輪が広がっていきます。
 湿地には、黒くやせ細った木々が、生えているというよりは刺さっているといった風に点々と続いています。弓を番える雑は、パパラチアめがけて矢を雨のように浴びせますが、彼はその木々の間を、自分めがけて放たれる矢の的代わりに利用しながら縫うように走り回るので、矢のほとんどが樹皮か泥濘に残された彼の足跡にばかりに刺さります。木々の切れ間、ようやくの好機ですら、抜きしなの剣の一閃で全てが無に帰しました。相手も流石に焦れたのでしょうか、あの整然とした動作に綻びが見え始めました。それを、私の遥か前方を駆ける彼が目こぼす筈もなく、沼を抜ける方角へ即座に進路を変えました。沼が終わり、地盤の固まり始める地帯まで誘い込んだパパラチアは、特段の予備動作もなく大地を蹴り、空へ跳びました。豊かな髪が風を受け、蝶の翅のように広がり、朝焼けのようなまばゆい赤橙色に輝きました。そうして全ての矢を斬り払い、黒く蠢く器まで向かうまでのわずかな時間、これまで一度たりとも振り返らなかった彼がぐるりと首をめぐらせて私をとらえ、片目をつぶりました。私はまもなく訪れるであろう、月人の鏃と彼の特別製の大剣とのわななきに早くも心を踊らせながら、伏せた姿勢のまま彼の真後ろまで駆け、二度目の合図に備えました。しかし、それは待てども待てどもなされませんでした。雑どもはパパラチアが舞い降りるのを甘んじて受け入れたばかりか、あるものは弓をつがえ、あるものは槍を投げようと片腕を上げたまま、めいめい得物を差し向けたきり、動きをぴたりと止めていたのです。パパラチアもまた、暁光を込めたような両眼を苛烈に煌めかせ、ひたと睨め付けて動きませんでした。
 私は何が起きても飛びかかれるように腰の剣に手を掛けつつも、遠く月人と対峙する彼の姿形を眺めながら、月人の代わりに砕かれてみたいような変な心持ちになりました。そんな下らない妄想に暢気に浸っていられるほど、もたついた時間が続きました。そして、ある瞬間、雑どもは、見えない斬撃でも受けたか、あるいはなんらかの臨界期を迎えたかのように、一斉に霧散しました。もうもうと立ちのぼった残滓がパパラチアを包み込み、月人を載せていた器が端から崩れていきます。彼はまだ動きません。

「危ない」
 
 なぜもっと早くに気づかなかったのでしょう。  
 彼の目が、既にきつく閉じられていることに。
 
 ぐらり、と彼の身体は均衡を崩して地面めがけて、ぐんぐん吸い寄せられてゆきます。わざと胸元を開けてある制服の上がはためいて、昨夜に嵌めたばかりの胸の部品が見え隠れました。もう時間切れのようです。あの高さから落下すれば彼のすぐれた靭性を以ってしても損傷は避けられません。私は剣を鞘ごと捨てて走りました。彼が踏み切ったのと同じ場所を踏み、彼と同じような軌道を描いて跳躍しました。彼ほどの飛距離は見込めませんでしたが、具合よく彼の身体を抱きこんで地面に降り立つことができました。代わりに脚の付け根の辺りで嫌な音がしましたが、かまわずにそのままの姿勢で彼の顔を覗き込み、「パパラチア」と彼の名を呼びかけました。けれど、指ひとつ動かしませんでした。髪の鮮紅が褪め、波打つ癖毛の間から覗くほっそりとした首が、蒼白く見えました。ああ、叫んでから彼の異変に気付くなど、なんたる失態でしょう。それよりも重大な過失は、彼の起動時間がこんなにも短くなっていたことです。なぜ、もっと敏感になれなかったのでしょう。自己嫌悪に陥りながら、周囲を見回すと、地面に光る欠片が散らばっているのが目に飛び込んで来ました。さらに彼の握りこんだ掌にも、やはり、地面のものと同じ色の欠片がありました。先達て攫われたパパラチアの兄弟かもしれません。私が残りの欠片を拾いあげているうちに、学校の方角から、真っ先に駆けてくる鮮やかな黄色の姿がまたたくのが見えて、やっとのことで、ほっとしたような心持ちになりました。

 胸の部品を取り替えたパパラチアは、すっかり元気を取り戻していました。しかし、金剛先生が今日の残りは医務室での待機するようにと仰いましたので、私は取り返した仲間の再生を進め、パパラチアは養生を兼ねて末っ子の勉強に付き合うことになりました。
 うまれたばかりの末っ子は、名をフォスフォフィライトといい、海の浅瀬をそのまま掬いあげたように繊細な色彩をしていました。最初こそ、皆で目に入れても痛くないほど可愛がったものでした。しかし、物心がつき始めてからは、そこらの物にぶつかるだけで罅の入りかねない脆い身体を持て余し、際限なく不満を散らしてばかりいましたので、次第に相手にされなくなっていました。けれど、そうした存在は、最近ますます待機業務に回されるようになってきたパパラチアにとって、恰好の相手です。いまもフォスの宿題を見てやるという話でしたが、
「どれどれ。進んだかな。おお、眩しい解答用紙」
「勝手に見ないでよ。いやらしい。えっち。変態」
「チビのくせに口だけは達者ってのは本当だな」
「どうせ肝心なおつむは空っぽですようだ」
といった具合で一向に捗る気配がありません。
「じゃあそんなもんやめちまって、実地訓練だ」
「実地訓練?」
「ああ。俺を月人だと思って全力でかかってこい」と訓練用の木刀を放りました。こういうことを言われた子供は、がぜん本気になります。もちろんパパラチアの方も手を抜くはずはありません。そうして、二人して刀を構えて、……私が呆気にとられているうちに、……結果は言うまでもありません。
「……参りました」
「無理はするもんじゃないな、お互いに」
 自分の片腕を小脇に抱えたフォスはパパラチアに頭をぺこりと下げ、パパラチアも仰々しくそれに倣いました。そうして固く握手を交わす二人はたいそう満足そうでしたが、私は我慢ならなくなって文句を言いました。
「それで? 誰が片付けるんですか」
 自分でもおどろくほどの冷ややかな声が出て、フォスとパパラチアは同時に首をすくめると、フォスの右耳がぽろりと落ちました。また仕事が増えました。
「おうい、楽しそうなことやってるな」
遠くから快活な笑い声を響かせてイエローダイヤモンドが走り寄ってきてきます。これのどこが、という私の不服を無視し、パパラチアの肩を小突きました。
「なんだ、ぶっ倒れたっていうから飛んで来たのに、もうぴんぴんしてるじゃないか」
「リハビリにしては少々刺激が強すぎたな。そっちこそ自慢の俊足はどうした」パパラチアはイエローの爪先を鞘で小突き返しました。
「悪かったって。ルチルのおかげで助かったな」
「私一人でも十分でしたのに、前に出ると言って聞かないのですよ」
 おや、とパパラチアは涼やかな笑みを浮かべました。私はすばやく目を伏せました。
「てっきり、前線を譲られたんだとばかり」
「ああ、そういうことだったか」イエローは快活に笑いました。「どうだった。久しぶりにこいつの剣さばきを間近で見られて、ぞくぞくしたろ」
 イエローの無邪気な問いに、私は言外の不満を滲ませて睨み付けるので精一杯でした。イエローはそれで満足したのか、隣のフォスがどうにも輪に入り込めずもじもじしているのを見て、「そうだ、こいつを借りに来たんだった」とパパラチアの腰を掴みました。
「チビの世話はよろしく頼む」
「逃げる気ですか。待機も仕事のうちですよ」
「そこをなんとか」「よっ、美脚オブ美脚」
「なんです、最低の大人どもめ。フォス、ああいうのは見習ってはいけませんよ」
「おう、任せとけ」
「おまえら、案外仲が良いじゃないか」「ほんと」
 末っ子と一緒くたにされるとは心外だったので悪口雑言を浴びせようとしましたが、パパラチアとイエローはおたがいに顔を見合わせてにやにやしたのち、全速力で駆けて行ってしまいました。

 他の仲間の巡回の様子を医務室からぼんやり眺める末っ子は、先の実地訓練の興奮がいまだ覚めやらぬ様子でした。教科書の数行を読むたびに「パパラチア、すごかったね」を繰り返し、脚をそわそわと動かしていて、治療しづらいことこの上ありませんでした。
「ねえ、パパラチアって、少しくらい矢が当たっても平気なんでしょ? すごいよねえ」
「ええ。コランダム属の靭性はダイヤ属を上回りますからね。月人のように一点を鋭利な得物で攻撃する方法にはめっぽう強いはずです」
 それを過信したパパラチアの兄弟は、みな月へさらわれてしまっていること、その時組んでいたのがイエローであったことは、いずれ分かることでしたので、言いませんでした。
「おや、派手にチャンバラしたとばかり思っていましたが、あれで手加減されていたのですね。木刀による損壊は一つもありませんよ」
 右耳の割れは間接的には私のせいでした。
「僕もいつかパパラチアみたいになれたらな」
 フォスはぽつりと呟きました。先生が薄荷色、とこの地にはもう絶えた植物の名で形容した髪が、初夏の風に溶けるようになびきました。
「なれるとか、なれないだとか、あれはそういう代物ではありませんよ」
「んなこと分かってるよ」
「分かってないから言っています」
「先生が言ってたよ? 僕には可能性が眠ってるってさ。というか、僕の言ってるのはそういうことじゃないんだって」
「先生が言うのも、またそういうことではないと思いますけれどね」
「もっとこう、セイシンロン的なことなんだってば。ふん、なんだよ、そっちこそ、パパラチアのことなら何でも知ってる、みたいにしちゃってさ」
「当たり前です。パパラチアは私の」
 勢い込んで、つい。そうとしか言いようがありませんでした。私ははっとして口を閉ざしましたが、しかしこの口の減らない小憎らしい末っ子がそこで引き下がる訳はありません。
「教えてよ。パパラチアは、ルチルの、なに?」
「もちろん」そこで言葉を切りました。
「相棒ですよ。それが、何か?」
「ふうん。それって、向こうもそう思ってるわけ」
「ほう。早急に結晶構造から再構築する必要がありそうですね」
「そういうのやめて。じゃあ、じゃあ逆は?」
「逆? 正確にお言いなさい。論述の練習です」
「だからさ、ルチルは、パパラチアの、なに?」
 子供のきまぐれに持ち出す詭弁に向き合う義理は、これっぽっちもありません。けれど、促したのは私の方でしたし、それを受け止める相手がいないのことの方がさらに不憫さを誘いました。
「逆もまた真なり、です。お分かりですね」
 私は工具を二度打ち鳴らしました。
「さあ、治療は済みましたよ。あなたは予習をとっとと済ませるのが先決です。先生から範囲を指定されているでしょう。私の目をごまかせると思いましたか」
「ちぇ、ばれたか」

 金剛先生の元へフォスを送り届けたあと、私は簡易的な治療具の一揃いを持って医務室を抜け、長方形の池へ向かいました。パパラチアとイエローは、その縁にならんで脚を投げ出していて、ふたりは私の姿をみとめるとそれぞれ片手を挙げて大きく振りました。
「お邪魔でしたか」
「いや、ちょうど切り上げるところ」
 イエローは私の肩にかるく触れて巡回に戻って行きました。去り際のほほえみが、目の裏にいやに残ります。
「あなたはどうしますか」
「まだここにいる。起きていられるうちは光を浴びておくよ」
「では私も回診に行きますので」
 白衣の裾がぐいと引き戻されました。日頃は内勤の仲間たちのにぎやかな声が聞こえてくるのが、今日はおそろしく静かでした。私たちは暫し見つめ合うかたちで対峙していました。先に根負けしたのはパパラチアの方で、もう笑いをこらえきれないといった風でした。私は屈んで、額をパパラチアの肩のあたりに埋めさせました。彼は私の旋毛に手を乗せて、その上に顎をああくたびれた、顎を乗せました。くせのついた髪の毛が私の首元を甘やかにくすぐります。年端のゆかぬ子供には伝えられそうにもない、とてもうしろめたい充足です。見ろ、とパパラチアが言うので顔を上げると、西から赤い雲のようなものが近づいてきていました。正体は、この季節になると現れる赤い蝶の群れです。池の水面に浮かぶ葉を休息の地に選び、大きな翅をせわしなく開いて閉じるのを繰り返すので、まるで水面に咲き乱れた花が風に煽られているようです。幾らも経たないうちに、私たちはその生きた花々に囲まれていました。
「昔、こいつらをつかまえたくなって」
 蝶を手首に一頭止まらせて、パパラチアが言いました。翅は彼の指先まで覆い、すぼめるたびに目玉のような模様がこちらを覗きました。
「枝に止まっているところをねらって、翅をつまんでみたんだ。随分注意深くしたつもりだったんだが、急に動くものだから穴を開けてしまった。慌てて指を離すと、そいつはよろよろと草原の方に飛んで行った。だがすぐに地面に落ちて、長い草に紛れて分からなくなってしまった。悪いことをしたよ、せっかく生きていたのに」
「これ、図体のわりに脆いですからね。あなたがそうしなくても、いずれ何かにぶつかるか、池に落ちるかして、駄目だったでしょうね」
「ははは。慰めのつもりか、それ?」
 パパラチアは蝶を逃してやると私の腹のあたりの制服に鼻をこすりつけて笑いました。硬度九を誇る硬さと深みのある声を、私は身体じゅうで受け止め、目を閉じました。
「それに、私がもしその蝶なら、非常な名誉のうちに死ねたでしょうね。あなたの手で無に帰してくれるのですから」
「おまえはときどき怖いことを言うよな」
 私の耳元に伸ばされかけた白い手を、私の黒い指で搦めて捕らえようとしましたが、彼はするりと逃れて、手の甲に付いた鱗粉を指先で躙り、私の唇の上に乗せてなぞりました。私は再びもたらされたそのくすぶりを愉しめば良かったはずなのに、口をついたのは、
「見立てが間違っていなければ」じつに冷めた声でした。「あなた、私に傷を隠していますね」
 彼は返事の代わりに、さらに顔をうずめます。クツクツとおかしさをこらえた声が漏れ聞こえて来ました。上衣の袖と長手袋で隠れていますが、そこに指をあてがえば、縦にくっきりとした罅が入っているのが分かります。
「よりによって利き腕とは。久しぶりで、振り抜きすぎましたか。厄介ですよ、こういうのは。治っても癖になるかもしれません」
「また治してくれるだろう? 俺のお医者様は」
「当たり前です」
 彼とこんな風に取りとめもなく続ける会話、飽くことなど知らないやり取りを重ねることに、私がどれほど心を砕いたことでしょう。それが私と彼に絶えず付き纏う不運の監視をのがれ、どこでもない場所で戯れられている証でしたから。私は夢中でした。池中で咲き乱れる巨大な蝶の群れなど、目に入らなくなるほどに。

 次の日から、パパラチアはなかなか目覚めませんでした。毎朝声をかけ続けて、はっきりしない答えが返って来て、昼過ぎにようやく目覚める日が続きました。体調が悪いのかと訊いても曖昧にはぐらかすので、しつこく問いただすと、身体がひどく怠く、半身を起こすのがやっとだと白状しました。それは彼がふたたび長い眠りに就く兆しでした。このところ、緒の浜での産生物の量は漸減していていましたし、その中でも貴重なコランダム属の成り損ないがそう都合よく生まれる訳もありません。私は蓄えてあるうちのいくつかから質の良い資材を少しずつ使っていくことにしましたが、以前ほどの効果は望めず、日に日に彼が弱っていくのに、手をこまねいているばかりでした。
 パズルの中止。それは私の頭をよぎるたびに棄却し続けた事態でした。しかし備蓄資材の残量と、ユークレースに計算し直してもらった最新の産生速度の概算から考えて、現段階でこれ以上使い込むわけにはいかないのはまぎれもない事実でした。資材集めには途方もない時間を要します。使い切る恐ろしさは想像だにできませんでした。なにより、治療の可能性を失うことは彼を見放すのと同義でした。
 私は、『中止』に至る手順を、目を閉じて仔細に描きました。彼の胸に空いた湾曲した窪みからすべての資材を抜き取り、状態を記録し、彼を抱き上げて抽斗に仕舞う。それだけです。普段の一連の作業と何が違うのか、説明を求められたとしても、うまくできそうにありませんでした。けれど私にとっては天と地ほどの差です。これまで彼の内包する微小生物の不調ゆえの眠りを、みずからの手で与えるなど考えられませんでした。くわえて私を憂鬱にしたのは、パズルをやめると切り出したところで、だれしもが、ルチルが決めたならそうした方が良いと言いそうであったことと、何より、彼本人がよろこんでそれを受け入れるだろうということでした。

「あんまり根を詰めるなよ」
 資材の膨大な組み合わせ表と顔を突き合わせていると、背後で、いま、もっとも聞きたくない相手の声がしました。最低限の礼儀として振り返ってやると、ジェードはけわしい顔をしていました。
「おまえ、寝てないな」
「進捗報告も提出した筈ですが、まだ何か」
「朝礼にも出席しろ。文書だけでなく」
 ジェードの目がさらにすうっと細くなります。日頃何でもないと思っている相手ほど凄みが出るものでしたが、それでも怯むわけにはいきません。
「他に用がなければ、お引き取り願えますか」
「いや、まだある。私にしか言えないことだ。ただ、何と言っていいのか、思いつめてはいないだろうか」大口を叩くわりに急に弱気になる、私はそういう一貫性のなさが大嫌いでした。
「言うに事欠いて」ひらひらと手を振って追い払うそぶりをしましたが、縺れてうまく動きません。「フォスの方が余程ましなことを言うでしょうね」
「なぜ、パパラチアの修復を焦る。おまえの大事な相棒だというのは重々承知している。だが、私たちには無限の時間があるだろう。もう少し経てば、新しい資材も増えるだろう。なぜそれを待てない?」
 拳を握りしめ下を向くジェードに、私は怒りも、苛立ちも、悲しみも抱きませんでした。それが、誰しもが抱くごく当たり前の感想でしょうから。
「あなたのその感性では説明しても一欠片として理解できないでしょう。せいぜいその美徳を大事になさい。言いたいこととやらは、それだけですか」
 そう睥睨してあしらってやれば、それ以上深追いはされないことも分かっていたので、久方ぶりに清々しました。けれど、その刺々しさがそっくり私の胸に跳ね返ってきて、向こう百年は抜けないような気もしました。
「ことわっておくが」
 ややあってからジェードが口を開きました。珍しいことでした。
「この感性だからな、おまえに何を言われようとさほど傷つかないぞ。また来る。おまえを朝礼に来させるまではな」
「わざわざ撲たれに来るとは、良いご趣味ですね」
 ジェードはそれを聞くと、寄せた眉根を少し和らげて背を向けました。棘を一段と深く刺された気持ちでいると、彼は入り口で踵を返して、こちらに深く頭を下げました。
「いつも力になれず、済まない」
 私は近づいて、その後ろ頭に手を伸ばして、少しいびつだった髪の輪を直してやりました。

 早朝、用意した資材をいつものように嵌め込みましたが、パパラチアは身じろぎもしませんでした。瞼や小指の先がかすかに震えはしないかと淡く期待しましたが、それも叶いません。
「よく眠っていてくださいね」
 私は彼にそう囁きかけて、彼の頰をそっとなぞりました。それは彼に対してというより、己に対する弁明の言葉でした。彼が眠ったままであるのはすべて私が彼に頼んだせいだと考えれば、彼の不運を自分の施術の至らなさになすりつけることができ、何もかもを説明できる気がしましたから。
 私は抽斗ごと引っ張り、医務室でいっとう日当たりの良い場所に置きました。切の湿原で青空に煌めいたあの鮮紅がうす暗い室内をにぎやかにしました。そうしているうちに、大規模な戦闘が開始されて、パパラチアにかまけている暇はなくなりました。多忙の中、遠くから見る彼は、明るい日差しの中で、私たちとは違うやりかたで、違う時間を過ごしているように見えました。私は決意しました。夜に、彼から部品を抜こう。私自らの手で、彼を眠りに閉じ込めるのだ。

 決意は簡潔に執り行われました。部屋に帰って戻るなり、思い描いた手順通りに部品を抜き取りました。窓辺に並ぶ全ての部品が夜の僅かな光を集めてひそやかにきらめくのを見ていると、ある種の晴れがましささえ抱いてしまうほどでした。床に脚をだらりと投げ出すと、押し寄せる疲れが瞼を押し下げにかかりました。その重みに任せて、すっかり寝入ってしまいました。
 それでもいくらも経たなかったと思いますが、医務室の窓辺に腰掛けている彼の姿を目にして、あやうく床に手を妙な角度で打ち付けそうになりました。この光景は、はたして現実のものでしょうか。パパラチアは私の姿をみとめると、傾げていた頭を戻して、おはよう、と口だけ動かして、ゆっくりと瞬きをしました。夜空と、夜空を映す水面を背にしてそうしているさまは、翅をくつろげている赤い蝶を想わせました。私は慎重に尋ねました。
「ご気分は。どこか思い出せないことだとかは」
「何を言っている。おまえがいつも上手くやってくれているじゃないか」彼は前をはだけて、ほら、と上から順に材料の名前を読み上げていきます。それは先刻外したばかりの組み合わせであったはずなのですが、彼自身が嵌め直せるわけもありませんから、やはり、あれは夢うつつのうちの出来事だったのでしょうか。
「それよか、夜風に当たりに行かないか。池の反対側まで」
 少し迷いましたが、消灯までと約束して歩き始めました。二人ぶんの足音が、初夏の夜によく響きました。
「驚きましたよ。いったん眠ったあなたが夜に目覚めたことは、私と組んでから一度もありません」
「そうだったか。すまないな、気まぐれで」
 いいえ、と答えながら、私は、昼間のあれが聞こえていたのか、あるいは伝わっていたのか、尋ねたい気もしましたが、だまって歩みを進めました。
「先だってのあなたの兄弟の欠片ですが、復元したところ右手が出来上がりましたよ」
「ごくろうさま」
「今日も見回り組からの資材が届けられました」
「よかった」
 つとめて淡々と報告をしている間、こちらを見る彼の瞳は底光りをしているようでした。私は注意ぶかく真っ向からの視線を避けていました。そうでもしないと、声が揺らいで、私の決意が気取られるかもしれなかったからです。
「俺の後輩はみな働きものだ」
 パパラチアの声には心からの喜びが滲んでいて、立ち上がると、柱を足場として、トン、トンと調子よく壁を蹴って、あっという間に高度を稼いで、仕上げとばかりに宙を一回転してみせました。
「あんまりはしゃがないでくださいよ」
「分かってるさ」
 パパラチアの跳躍は方々から見物の対象になっていて、あちこちから感嘆の声が沸きました。
「あなたの腕の傷」
 私が負けじと声を張ると、彼は音もなく着地して駆け寄ってきました。
「あれは、振り抜き過ぎたための自損ではなく、わざと矢を受けて出来た防御創ですね」
「なぜそう思う」
「蝶の翅にすら穴を開けるのを厭うあなたが、いくら久しぶりとはいえ力加減を誤るでしょうか」
「身に余る言葉だな」
「自損による傷は深部を裂きますから、甚大な損傷に発展する場合もあります。しかし、あの傷はごく浅かった。とすると、仲間の入った月人を斬ったとき、本当はまだ動けたのではありませんか」
「ばれましたか」
「わざわざ運ばせて」
「ふふ」
 重かったんですよ、と私が凄むと、おおこわい、と、すこしも思ってもいないのに両腕を抱いてふるえてみせました。
「理由を尋ねたいのはこちらの方ですよ」
「ちょっとした不運が重なったのさ」
「それだけでは納得できません」
 パパラチアが再び眠りに就く前に、それだけははっきりさせなくてはならないと思いました。
「月人の前で、何か見たのですか」
「ああ、見た。月人の武器となった兄弟の欠片を。そして考えていた。あれは本当に俺の兄弟だったのだろうか。俺たちは欠片を見れば、それが誰だか瞬時に判る。兄弟なら尚更だ。だが、あのときの俺には、何も感じ取れなかった」
「敵を目の前にして、悠長なことですね」
「なあ、ルチル。欠片になった俺たちは、生きているのか。蝶が粉々になってしまうと、もう動かない。なぜそれと同じだと言い切れないんだ。蝶はいったん砕けると身体を繋ぎ直すこともできなければ、本の頁を捲り返すように時間を戻すこともできない。そうなれば、もう、蝶は俺の記憶の中にしかいない。記憶を手繰るたびに、そいつがどんな大きさだったか、色だったか、柄だったか、羽搏きだったか、その時どんな景色だったか、細部は失われてしまう。あのとき俺は、掌の中に、間違いなくあいつを手にしていたのに、あいつが笑ったり、戦っていたさまをうまく思い出せなかった。なあ、俺は、あいつをどこにやってしまったんだろうな」
 彼の手を、私は握ることすらできませんでした。校舎からの声は、もう届きません。
「先生から聞いたことがある。欠片になった皆は、少し眠っているだけだと。ふたたび目覚めるための、しばしの眠りだと。俺たちの身体は長い時をやり過ごすのに都合よく出来ている。ただ、ひとたびそうなれば、自分では決して目覚められない。誰かに起こされななければ。だが、それは俺たちが本来の姿に戻っただけではないのか。気の遠くなるほどの時間をかけてうまれおちたというのに、見向きもされずにいる大多数に」
 これは罰でしょうか。今、彼をその淵に突き落とそうとしているのは、私の方です。
「ここに立って、歩いて、皆といて、私と話していることの方が異常だとおっしゃるのですか。それがあなたの本心ですか。もしそうなら、私は」
 私はこれまで何をしてきたのでしょう。あなたの、何を見てきたのでしょう。言葉が、止めどなく溢れそうになりました。けれど、パパラチアは、私の唇に指を添え、この上ないほど優しく微笑みました。蝶が、忙しなく私たちの周りを飛び交います。その羽搏きは、私たちにしかとらえることはできません。
「私は」
 私は、私を責めることすら許されないまま、口を開きました。
「あなたの、何ですか」

 黒くつややかな水面に映り込んだ溢れんばかりの星々が、強く吹き始めた風の波紋で散り散りになりました。
 彼は口を開きかけましたが、言葉の代わりに彼の胸の空洞に手首ごと引き入れられ、そのすべらかさを指に絡め取ったときには、すでに、池のさざ波は、はっきりしたざわめきに変わっていました。 

 私は、突き放された、と感じました。同時に、引き寄せられている、ということも。

 ものごとが、私の周りを物凄い速さで流れて、ごぼりごぼりと音を立てて渦を巻きました。私と彼の間の、茫漠とした時間の空白。かつて、空を悠然と羽搏いていた蝶。海の果てから訪れ、地をすみずみまで飛んだ果てで、その大きすぎる翅を持て余して力尽き、池をたゆたう、微光を発するくらげに食らい尽くされたあとの、赤く染まった水面。

 パパラチアは、私に掴ませようとしただけなのです。私が目を背けていたものごとを。彼の持つ、ただひとつの確かなものを。彼の胸を満たす空白を。けれど、私はかたくなに受け取りませんでした。私の手首を引き込んだ彼の顔は、もう影に隠れて見えませんでした。

 ルチル、と呼ばれた気がしました。
 もう、消灯だ。

 声の主はやさしく言いました。
 いま行きます。

 そう答えるつもりでのろのろと立ち上がると、両脚の付け根、膝、脹脛とたやすく罅が入り、真後ろによろめきました。反転する視界には、くっきりと星群が貼りついていました。

 私は永遠とも取れる時間をかけて、ゆっくりと、やわらかく、やさしく抱きとめられ、いざなわれるように、夜のふところへと落ちてゆきました。


[chapter:白黒の正気 asterism ver.]

 ルチルは目を開けた。浅い眠りに半身だけ浸かっているような心地のまま、壁にもたれて、夕陽の名残の漂う空を見つめた。とても長い夢を見ていた気がした。過日、本当にあったはずの出来事を。だが、その残像は雲を掴むようにすり抜けてしまう。追うのをあきらめ、手近にあった日誌を引き寄せる。仲間をいくら閉じても足りなかった怒涛の日々が過ぎ、医務室はようやく静けさを取り戻していた。ルチルは腕を回したり屈伸して、不調を訴える四肢を宥めすかしながら、身体を起こしあげて空の診察台まで歩み寄ろうとした。治療を待つものの波の途切れた今、床ではない場所で横になるべきだった。その前に、とルチルは窓際に吸い寄せられる。彼に、一目会うために。彼本人には、けして届かない逢引きを乞い願うために。否、そんな大仰なものではない。ただ、そこにいるか、確かめるだけでよかった。ルチルは引き出しに手をかける。重みのある手こずりに、微かな希望を覚える。ああ、彼はそこにいる。むろん、当たり前だ。昨日と同じ動作を、幾星霜と繰り返し、重ねたのだから、当然の帰結だ。ルチルは一息に箱を引き寄せた。
 こんばんは、と挨拶をしながら、箱を覗き込む。
 唇が妙な形をして止まる。
 箱は空だ。
 始めから何も納めていないかのような顔をして、ぽっかりと、まぬけな空白で満ちている。

 パパラチアが見えない、という訴えを誰しも相手にしなかった。見えないと言ったって、と戸惑ったような苦笑を浮かべた。ほら、そこにいるだろう。いつものパズルもきちんとやっているじゃないか。疲れているんだろう、と肩を叩かれるのがせいぜいだった。皆が彼の様子を伝えるのに、ルチルの眼球がとらえるのは木箱の白茶けた四隅ばかりだった。先生は、機が熟すまで待ちなさい、とだけ告げた。瞑想明けの薄くひらかれたまなざしは、ルチルにいかなる救いも与えなかった。
 眼前が暗黒に苛まれる。頭から開いた感覚とはこういうものだろうか。いま一度試してみたいところだったが、眼球に錐をあてがうところをジェードに見られて以来、最低限の用具だけを残し一切が取り上げられていたので叶いそうもなかった。
 今しがたこの手に感じていた質量はすでに消え失せ、薄べったい板の木目をなぞるばかりだった。しかし、ルチルは室内に目を走らせた。当然パパラチアの影はない。校内をふらふら出歩いていようものなら、真っ先に伝わるはず。まして、何某かが勝手に連れ出したとあれば、例え仲間であれど容赦なく、この鑿と剣で粉にしてみせる。
 突然に草が鳴った。風が、思わず顔をかばうほどの強さで医務室に吹きこんだ。激務の最中でも梳っていた髪が、いともたやすく乱された。まるで、誰かに雑に撫でられているかのような手触りがあった。

 気づけば、ルチルは医務室を背に、ふらふらと歩み出していた。風の吹く方へ。
 すべてを呑みこむ夜には、憎いはずの月明だけが頼りだった。夏の近づきつつある海の波はおだやかに砂浜に寄せ返し、静寂をみたしていた。波は必ず沖へ戻ってゆくのだから面白い、時と場合が許せば何時までも眺めていられる、といつかパパラチアと話していたのを思い返す。
 赴く先は緒の浜だった。論理的に導いた仮説ではなかったが、説明のつかない物事に向き合うには、説明のつかない『うまれる』という出来事の起こる場所がふさわしいような気がしたのだった。
 道すがらに真新しい足跡はなかった。ともすれば、あの銀色に光る毒液を見つけて、智恵を貸してはもらえないだろうか、と考えている自分がいた。
 ふと、目の前を何かが掠めて行き、足元に当たった。屈んで拾い上げると、紡錘形の有機物だった。大きさは手のひらを覆うほどで、夏の淡い曙光の色に染められていた。存外に厚みがあり、指で紡錘の両端をつまめばしなやかに曲がり、瑞々しい。裂いてみれば、縦筋に沿って流れるように二つに割れる。植物の花弁のひとひらかと推し量ったが、はたしてこの陸に、このように大きな花の咲く場所があっただろうか。そう訝りながらも、見覚えがあるのもまた奇妙だった。
 花弁を手にしたまま、月明かりを頼りに彼の姿を探し、思考を巡らす。しかし頭の働きは信じがたいほどに鈍重で、気がつけば棒のように立ち尽くしている有り様だった。
 いよいよ限界かと思われ、ルチルは来た道を引き返すことにした。だが、花弁はまた落ちている。落ちているものを拾い上げ、また振り返れば、少し先に、また一枚。まもなく、拾い上げる間も無いほどの花弁が夜天から降りそそぐ。
 ルチルは確信する。

 確信からほどなくして、肩が、ごく軽い力で捕まえられた。


「そんな急ぐこともないだろ」

 振り返りたくはなかった。
「怖がらないでくれよ。それとも俺を忘れたか」

 忘れるものですか、とルチルは口に出さぬまま俯いていた。湿った砂をぎりぎりと踏みしめる。その声も肩に留まる質量も、この身体に刻み込まれている。背後の彼が本物だと、己の全てを賭してもいい。それでも一抹の不安はあった。月人の罠、それもよりによって自分が視認できなくなった相棒の似姿に幻惑され、罠と分かりながら嵌まる。これ以上の辱めがあるだろうか。まして他の仲間、例えば堅牢を誇るあの悪友に知れたなら、そのまま月に攫われた方が幾分救われるかも知れない。
 だというのに。
 ルチルは振り返った。
 どうすることもできないほど、抗えなかった。
 果たして、彼はそこに居た。
 月光を受け、紅とも橙ともつかぬ鮮やかな色をきらめかせる豊かな髪。形の良い瞳からあふれる情愛のこもったまなざし。着替えさせたばかりの夏の制服。ルチルの記憶と寸分違わないパパラチアの姿がそこにあった。
 本物ですか、と問えば、パパラチアは笑ってルチルの頬にかるく、だが注意深く触れた。ルチルは金紅の瞳を鋭く光らせ、頰の指をはらった。
「一応は本物のようですね」
「怒っているな」
「当たり前です」
「なんなら割って確かめてもいい」
「いいえ。それで、具合は」
「すこぶる、良好」
 白い手足を月光にかがやかせ、肢体を伸びやかに潮風にさらす彼は、昼の医務室の陽に当たるよりずっと生気に満ち満ちているようだった。
「どうして、私はあなたをずっと見つけられなかったのでしょう」
「ずっと隠れていたからさ」
「どこに、なぜ、と訊いて答えていただけますか」
「それは出来ない相談だ」
「そうですか。お元気ならばそれに越したことはありません。では、帰りますよ」
 さあ、と促すが、月を背に、パパラチアは身じろぎもしない。
「海を見ていかないか。診察をしながらでいい」
 私は首を横に振りました。
「嬉しいお誘いですが、私にも分別というものがあります。日を改めるわけにはいきませんか。
「それに、今は工具のほとんどを取り上げられています。みな、私がどうかして私自身を砕いてしまうのではないかと恐れているのです」
「俺のせいだな」
「いいえ。私が悪いのです。私の眼球があなたを捉えられなかったのですから。私を労ってくださるとおっしゃるのならば、どうか私と一緒に――」
「治療が無理なら、ここで眠れよ」
 パパラチアは砂浜に胡坐をかき、手で示した。
「あいにく枕がなければ眠れませんので」
「かわいい、ますます寝かしつけたくなる。なあ、どうしても今でなければ駄目だ」
「何故ですか」
「今が、夢の続きだからさ」
 パパラチアがルチルの腿のあたりを引き寄せるので、立っていられず、砂浜に膝をついてしまう。そのまま、肩まで抱き寄せられる。ルチルも彼の背に手を回すと、空を切ることはなく、彼の平らな背をきちんとなぞった。奇跡のようだった。
「なつかしいな。あのときは、俺がこうされていた」
 パパラチアの声は水の中に響いているように聞こえた。ルチルはパパラチアの膝頭にまで頭を落ち着けると、本当に、深く眠ってしまいそうだった。しかし、すでにルチルの指はパパラチアに絡め取られ、襟元にいざなわれていた。その動作の言わんとすることに自信が持てず、見上げたままでいると、パパラチア自らがネクタイを解いた。あとは我関せずと横を向いてしまう。彼の不在の視線に追われながら、仕方なくシャツの釦を外してゆく。じきに全てを外し終わり、胸元を開く。
 彼に開いているはずの胸の空洞は、大小の花の狂い咲きで埋められていた。ごく薄い紅色の花弁は、先刻ルチルの足元に積もったものだった。
 ルチルの思考は水の浅瀬をたゆたう。拾い上げたのは、月人へのある種の偏執の成せる、膨大な報告書の一節と挿絵だった。
『それは月人の傍にあたかも花の如く咲き、雑の種類や器の大小を問わず、月人に共通の意匠の一つとして顕れる。この華美な装飾が、斬撃や突風で舞い散るさまは、見た者に美的な感慨を与えるが、次の瞬間には計り知れぬ憎悪を掻き立てる』。
「最初から、こいつがあれば、石なんて嵌めなくてもよかったのさ。どうだ、綺麗だろ」
 ルチルの絶句をよそに、パパラチアは胸をさする。手つきは、自慢げでもあった。
 思考は急速に深みにはまる。思い出しかけている。この眼球が彼の像を結ばなくなる前に、いったい自分が何をしようとしていたのか。否、すでに行ったことを。
「月人の纏う花でしょう、それは」
 ルチルは声を絞り出した。
「今すぐその手を叩き割りたくてたまりません」
「相変わらず、かわいい顔をして剣呑だ。こいつは元々大きな葉を持った、水の中に生える草だ。それがどういうわけだか、俺を気に入って身体中にこいつの根が張った。俺を肥やしにして、もう葉も出さないつもりらしいな」
 眼裏に立ちのぼる、花が二人の周りに咲き乱れる幻視を、ルチルは瞬きを一つして消し去った。
「要するに月人の真新しい罠というわけですね。なおさら、皆に早く報告しなければなりません。そして、やはり私は眠るべきです、あるいは目醒めなければ」
「気の利いたことを言うな」
「今が夢の続きなら、悪い夢であって欲しいだけです。こんな汚らわしいものがあなたを蝕んで、それをみすみす許してしまっていたなど、到底受け容れられません」
「汚らわしいときたか、おまえなら喜ぶと思ったのに」
「ええ、とても興味深い。ですから、ありったけ引きちぎったのち、ご一緒願うばかりです」
 パパラチアは、じつに愉快そうに笑った。
「見ての通り、体調は上々だ」
 パパラチアは徐に立ち上がる。無造作に置いていた大剣を手に取り、すらりと鞘から抜く。鞘を放り捨て、切っ先は海風を鋭く斬る。利き腕を振って、「腕の傷も良くなった」とかつての継ぎ目を無邪気に見せたが、ルチルは黙っていた。パパラチアは肩をすくめ、
「こいつらは、俺を哀れんで咲いているのさ」
 身体に宿るはずもない液体が、ひやりと背中を何かが伝っていく感触を覚える。空洞を空洞のままにしておいたルチルへの戒めが、パパラチアを蝕んでいるのだろうか。
 寄せる波は今や大波となり、岸壁に当たっては白く砕け散っている。こうしているうちにも強固な岸壁は浸食され、有用な部品や未だ見ぬ仲間が、可能性と共に海へ沈んでゆく。なぜ海は、永遠に凪いでいられないのだろうか。
「――だが、この花が全身に咲くようになれば、俺は根に絡め取られて動けなくなる。俺が俺だと分からなくなり、動くことも、おまえと話すこともままならなくなる。もしそうなったなら、おまえ、どうする」
 波音や風音は、もはやルチルの耳に入らない。
 パパラチアは、けわしさを増す金紅の光をまっすぐ受け止めながら、朗らかに笑った。
「視線で砕けちまいそうだな」
 ルチルが何も答えないでいるうちに、パパラチアは剣を納め、ふたたび砂浜にごろりと寝転んだ。ルチルはそれを見おろす形になる。ルチルは無言で白衣を脱いで彼に渡す。
「敷いてください」
「おまえが使えよ」
「あなたの髪の方が心配です。砂や海水は髪の傷みの原因になりますから」
 パパラチアはまたおかしそうに笑った。なにがおかしいのか、訊いても答えない。いつもそうだ。彼がようやく白衣を受け取って敷いて、お前もと促すので、ルチルも仕方なく浜に身を横たえる。夜空はあきれるほどに星を撒き散らしていた。パパラチアはその中で目立って輝くものを繋いでは、何かに見立てて遊ぶ。
「見ろよ。あの三角は、おまえと最後に見たときからそう位置が変わっていないな。間は少し広がっているかも知れないが」
「間にある星が消えていますね。残っているものも、光が衰えています」
「あの一番赤いやつから南に下って白いのをつないだ線を何と呼ぶか知っているか」
「さあ」
「ルチルの髪の毛のはえぎわ座」
「赤と金で色が分かれるところですか」
「ほう。しばらくいないうちに寛大さを覚えたな」
「あなた、星ばかり見ていないで、その花がいつ散るのか、教えてください」
「さあ。おまえの眠っているうちかもな」
「それなら散らないように見張っています」
「見張っても散らないようにはできない」
「いいえ、できると言ったらできるのです」
 ルチルは、はたと口をつぐむ。ほとんど聞き分けのない子供のようだった、と恥じる。
「眠れよ。もう限界だろう」
 パパラチアはルチルに身体を向け、顎に手を伸ばして、指を添えた。
「おまえは、いや、おまえたちは忘れているかもしれないが、物事には終わりがかならず来る。花や木は枯れる。水は干上がる。蝶もくらげも死ぬ。陽は昇らなくなるか、膨れ上がって俺たちをも飲み込むかも知れない。全てのものは朽ちる。おまえはじきに眠るし、俺は花の餌になる。そういう定めだ」
「いいえ」
 ルチルは決然と言った。
「でしたら、なおのこと眠りません」
 ルチルの視界が遮られる。頭ごと抱き寄せられたと気がつくまでに時間がかかった。その加減があまりに優しく、身体の全てが一欠片も余さずに彼に落ちこんでしまうと錯覚した。花のもたらす濃密な空気を、白粉の下の結晶がひどく欲する。こんな感覚を、どうして知っているのだろう。
「なぜおまえはいつも俺の先を行くのだろうな」
「追いつけないほど遠くにいるのはあなたですよ」
「本当におまえは怖いことばかり言う」
「誰に似たのでしょうね」
「不出来な相棒を許せよ」
「その埋め合わせが、これですか。悪い大人」
「なあ、悪い大人に頼まれてくれ」
 彼はふいと目を逸らした。
「始まりを決められないのなら、終わりくらいは、俺に決めさせてくれないか」

 今は潮が引いているのか、それとも満ちているのか。海に背を向けているので、分からなかった。
 ルチルはパパラチアの腕から抜け出して、彼の背中を浜に押しつけた。何の抵抗もなかった。腰のあたりに跨って、彼を見下ろした。月影は、彼の瞳がかすかに透かしていた。
「あなたの望みならば喜んで叶えましょう」
 花の埋まった胸の空洞に手を滑らせた。すべらかな穴にはたしかに植物らしい根か茎が張り巡らされている。絡み合う茎の成す網目に指をかけて引っ張ると、何か感ずるところがあるらしく、パパラチアは僅かに喉を反らせた。ルチルは彼の様子に仄暗い満足を覚える。
「代わりに、聴いていただけますね」
 私の戯言を、とルチルはパパラチアの耳朶のそばで囁く。唐突に茎の一本を身体からぶつりと引きちぎれば、彼の眉根に恍惚が滲む。
「あなたの胸に、私の手でも、脚でも、砕いて埋めてしまいましょう。あなたは私の悪夢そのものなのでしょう。ならばあなたは本物のパパラチアではない。したがってここにいる私も本物ではない。そうでしょう。それならば、偽物の私が偽物のあなたを屠っても、なんら不都合はありませんね」
 パパラチアはルチルの金紅の瞳を見つめていた。
「かまわないのです。あなたが悪夢だろうと、罰だろうと、まやかしだろうと、月の罠だろうと。けれど許せないのは、あなたが私を置いてどこかへ行こうとしていること。あなたの願いは尊重します。けれど、それを実行するのは私でなければなりません」
「やっぱりおまえは恐ろしいよ。そして賢い」
 パパラチアはルチルの額をいとしげに撫でた。
「そうだ。俺はおまえを置いてゆこうとしているのさ」
「どこへ」
「分からない。知らない。知りたくもない。俺は愚かで臆病なんだ。おまえより長く生きて、おまえのお蔭でのうのうと眠りこけているというのにな。
何も分からない。それがために、どうにも怖い」
 ルチルの利き手はパパラチアの腰へ導かれる。掌に小刀を握らされる。柄から切っ先まで、光を吸いきって真黒だった。
 おまえの好きなようにやれよ、と言った声がふるえているような気がした。ルチルは小刀の重みをたしかめながら、彼を抱き起す。

「きちんと叶えてさしあげます。ですから」

 だまって、私を見ていてください。私だけを。

 ルチルはパパラチアの額の上に唇を落とす。かつん、と音を立て、己の欠片が赤い蝶の鱗粉のように落ちた気がした。しかし、白い膚には罅ひとつ見当たらず、真白なままであった。
 瞼はゆっくり開かれる。光を潤ませた形のよい瞳。
そうだ。あなたの目玉はその胸に咲く花と同じ色をしている。
 パパラチアは、やさしくルチルを見つめていた。
 ルチルは小刀をパパラチアの胸の空洞の一つに挿し入れた。そうして、ゆっくりと、内側の引っ掛かりを搔きまわす。根や茎が爆ぜるように切れると、パパラチアは眉根をさらに寄せた。耳に音が戻って来る。波の音。風の音。衣の擦れる音。やめますか、と訊くと、パパラチアは、いいや、とやさしくルチルを見つめた。そして、こんな夜におまえを見るのも悪くないと笑った。

 小刀を胸から抜き、鎖骨へと、慎重に切っ先で撫でてゆき、白い首筋にあてがう。首から、あるはずのない脈動が伝わった気がした。注意深く力を込めると、わずかに一筋、地肌がのぞく。それは彼の睫毛の色、あるいは彼の瞳の色、あるいは彼の髪の色、あるいは彼の爪の色だった。

 ひときわ高く澄んだ音が響いた。
 音は砕けた波といっしょになって、深い夜の闇に紛れて消えて行った。

 ルチルの目に最初に飛び込んできた風景は、緒の浜ではなく医務室の床だった。立ち上がって服装をたしかめると、白衣には水染みも砂埃も付いていない。脹脛にパパラチアの納められている箱の角が当たる。ルチルの眼球は正常にパパラチアの像を結ぶ。当然の帰結として、彼は箱にきちんと収まっていた。そのまま押し戻しかけたが、手がひとりでに彼のネクタイを解き、シャツの釦を外した。彼の空洞はきちんと空洞のままであり、花弁のひとひらさえ見当たらない。しかし、白い首筋には、鋭利な刃物でさらけ出されたような、紅とも橙とも付かぬ、一筋の鮮やかな色彩が浮かんでいた。ルチルは手早く白粉を叩き、乱れた服を整え、彼を完璧な状態に復帰させ、あるいは隠蔽した。


 校舎をしずかに抜け出た。
いまは凪の刻だった。朝陽がおだやかに水平線やルチルの座る草原ごと染めている。

「やはりあなたには、夜明けの陽が似合う。月の下で花に蝕まれていては、あまりにもかなしい」

 不意に、眼球の奥からか、熱のような痛みが襲った。疲労でも眠気でも欠損でもない。内にうまれた熱い流れが渦を巻き、目の端から溢れそうになり、かたくなに抑え込もうとする。あるはずのないものと必死に戦った挙句、あまりの力に耐えかねて、片側の手首に罅が入る。使い物にならなくなり、黒い手袋ごと抜き取ってしまうと、己の赤が凝った結晶がこぼれ落ち、朝陽にかがやいた。

 その赤が目に飛び込むや、とうとう、痛みに耐えかねてうずくまり、せぐりあげた。


 これが、あの花の正体だった。

【終】

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