あのチャペルで会いましょう
初出:2017年5月21日 05:49
【注】次の要素を含みます。 人間化パラレル /女体化 /パパルチ /百合 /ぬるいエロ+痛そう
タイトルはお題メーカー『CP本のタイトルと煽り文』(https://shindanmaker.com/717995)様からいただきました
[chapter:Prologue]
無人駅の傍で散りかけた八重桜が小雨に首を垂れていた。幼子は微睡みから未だ抜けきれず、下車一番に重い鞄を背負わされた不平を小さな体躯で一杯に表現していた。それでもコウモリ傘を差して駅舎の軒先から離れて辛抱強く待つと、ついに観念して、手を握りにきた。
私はその手を握り返し、雨に濡れそぼった砂利道を、山奥にかまえる白漆喰の学び舎へ歩き始めた。
禿頭の偉丈夫はすでに門の前で蛇の目傘を差して待っていた。
「遠いところをようこそ」
濃い墨色の僧衣を纏った姿に、幼子はかつて触れたこともない脅威を感じ取り後ろに隠れた。僧は意に介せず屈み込んだ。
「おいで」
低く、よく通る声が、私の肌をざわざわと粟立たせた。幼子は導かれるように前に進み出て、僧の差す傘の中に入った。大きな掌にこうべを包まれたり存外に繊細な指先で頰に流れた雨の粒をぬぐわれたりすると、余計な強張りは消え、本来の和やかさを取り戻すのだった。
「この学び舎に居るうちは、それまでの名を仕舞い、私の授けた宝石の名で暮らす。
いずれ相応しい名が見つかるまでは…………」
幼子は丸い目を瞬かせて、授かった仮の名を、乾いた水が地に染み込むかのような自然さで受け入れた。
ごおん、ごおん、ごおん、と鐘が三度鳴り、辺りの森に響き渡った。
「中休みだ。皆で札取りでも始める頃だろう。二階に行きなさい。金剛という札の掛かった部屋がある」
遊びと聞くやいなや、浮き足立った幼子は一直線に駆けていった。
雨足がにわかに強まった。
「あの子は元気がいい」
「きっと早く馴染めるでしょうね」
「ここにいる子は皆が優しい。おまえもよく知っているだろう」
「ええ、相変わらず。この場所もあの頃から何一つ変わりませんね。古い時間も新しい時間も渾然としているところも。そして金剛先生も」
「私は変わっていないかもしれないな。だが、代わりに色々なものを失った。
おまえも私の元を去った」
「去ったのは、わたくしだけではないはずです」
咄嗟に、内に封じ込めていた親なるものに対する反抗めいた矛先を向けてしまった。
悔いたときには既に遅く、金剛先生はそこにあったはずの広い学び舎ごと消え失せていた。私は鬱然とした森に残された。
悲しげな、慈しむような眼差しと幼子の傘だけ持たされて。
[chapter:#1-1]
四限目の終わる十五分前のことだった。
金剛先生は授業をきりの良い所で止め、残りを綴り方の自習にすると言い残し、お目付役を議長の《ジェード》に任せて教室を出て行った。実質の休憩のようなものだ。《モルガナイト》などは滅多にない機会に前に座る《ゴーシェナイト》にちょっかいをかけて始めたし、裁縫の得意な《レッドベリル》はさっさと縫いさしの刺繍を取り出した。ジェードは勿体ぶって咳払いをした。皆の視線が集まる。無言の圧力を物ともせず机間巡視まで始めるらしい。堅牢のジェードの異名は伊達ではない。全ては金剛先生への敬意のなせる業である。
ジェードが《ルチル》の机の横を通るとき、「ときに議長どの」とおもむろに片手を挙げた。
「何だ。藪から棒に」
ジェードはしゃちほこばって返した。
「議長はなぜ議長なのか、お考えになったことは?」
「それはどういう意味か」
「すなわち、議というものの根本です。議題もないのに、なぜ議長を名乗るのですか」
ジェードはこんな噴飯ものの詭弁にも馬鹿丁寧に向き合う。ジェードは宙に視線をさまよわせ、
「それは、ここに迎えられた折に金剛先生が授けてくださったからで」
「それを言うなら」太い眉を八の字に下げた書記の《ユークレース》が口を開いた。
「僕だって矛盾した存在ね。僕がここに来てからちょうど千八百二十五日経つけれど、書記らしい仕事をいただいたことはないわ」
「じゃあ綴り方なんかよして我々の存在意義を論じよう。ユークが板書で」
《ヘミモルファイト》が高らかに宣言すると、賛同の声がそこかしこから聞こえてくる。ジェードはかぶりを振って遮った。
「よせ、騒ぐ余所から苦情が出る。それでなくともうちの組はやかましいんだ」
「本当は議長だって議長やりたくてうずうずしてるだろ」
人望の厚い《イエローダイヤモンド》がさらりと付け足すと、外野はさらに勢いづく。
「そもそも議長がストレス発散させてくれないのが悪いよな」
「何を!」
既に場外乱闘の色が濃くなってきた。
時機は来た。イエローはジェードの肩越しにルチルへ片目をつぶってよこす。そう、今だ。
「ああ、わかった、わかった! じゃあ十五分だけ」
だが常に遊び道具を求めるこの組が落ち着いて着席して議論を続けられる筈もなく、議長はすでに人垣の中でもみくちゃに愛でられていた。
最後まで見届けていたい気持ちを追いやり、ルチルは昼間でも薄暗く、底光りのする板張りの廊下の奥に消えていった。
[chapter:#1-2]
分室の扉を軽く叩く。「回診です」返事はない。余計な金属音を立てないように慎重にノブを回し、鍵を掛けた。身じろぎせずにいると微かな寝息が聞こえる。ルチルは注意深く寝台の毛布を剥いだ。
寝台の主はうねりのある長い髪を清潔なリネンに散らばして深く眠っていた。豪奢な髪が横顔を隠していて、白い鼻の先だけが見え隠れしていた。寝息さえ立てていなければ精巧な人形と見紛うかもしれない。
ルチルは瞼を閉じた。瞼に彼女の像がゆらめき立つ。瞳は好奇心と知性に煌めき、白い歯を見せて腹を抱えて笑い、すばらしい脚力で以って野原を駆ける姿。今となっては叶わぬ美しい姿。ルチルは息を詰めて額に顔を寄せ、平静に呼びかけた。
「起きてください、《パパラチア》」
パパラチア、それがこの学び舎での彼女の呼び名だった。
パパラチアがこの程度の呼びかけで起きるわけはなく、言ったという免罪符を自分に与えたかっただけだった。
パパラチアの髪から自身の持つ香水とも石鹸とも違う快い香りが匂い立つ。心臓が痛いくらいに早鐘を打った。香りは化粧着の肌蹴て露わとなった鎖骨の窪みからより強く発せられている気がして、いざなわれるように顔を近づける。唇が触れそうな刹那、ルチルの喉に微かなつめたさと掌の柔らかさがまとわりつく。
切れ長の、大きな双眸はすでに開かれていた。
「ご熱心な保健係なことで」とパパラチアが掠れた声で笑う。ルチルの背中に冷や汗が流れる。パパラチアはルチルの内情など一切気にかけず大きな欠伸をして、
「いつから入らなくていい部屋に入るようになったんだ?」
「病人にふらふらされても困りますから」
「俺が病人でなかったときがあったかね」
「私の記憶する限りはありませんね。それから変なところ触るのやめてもらえますか」
「そっちが先に仕掛けて来たんじゃないの」
「わたくしのは医療行為です」ルチルは視線を少しだけ逸らした。
「腰までまさぐる必要はありません」
「おやおや。ルチルはどこまで悪い子に」
言いかけて烈しく咳こむので、ルチルが急いで水を満たしたコップを渡すと、うまそうに水を飲み、満足そうに息を吐く。
「悪いな」
「介護も業務のうちです」
「おまえな。まあ、でも俺がやらせてるには違いないな。今だってそうだ」
パパラチアはルチルの手首に触れる。
「かったるくて起き上がれなくって。手もほら、しわしわで、力が入らない。それなのに汗まみれで唸ってるもんだから、ルチルが襟を緩めてくれた。そうだろ」
パパラチアはルチルの頰を挟み、なおも言い募る。
「だから、続き、頼めるんだろ」
その言葉はルチルの心を甘美に揺らした。
そうだ、全てパパラチアの言う通りだ。本人が咎めないのなら、他の誰が咎めようか。
ルチルは小さく頷き、再び釦に指をかけるが、視線があるとどうにも落ち着かない。胸を覆う下着までやっと取り払うと、華奢な身体に不釣り合いなほどの豊かさがこぼれ出た。カーテンの隙間から雨上がりの日の光が差し込んでいる。肩甲骨から順に、タオルで拭き清める。神聖な儀式に臨む面持ちにさせる。
「もうよろしいですよ」
「やっぱり、ルチルが一番優しく拭いてくれるよ」
ルチルの額に軽い口付けが落とされる。
視線が絡み合った。
休み時間を告げる鐘が鳴る。
はたと壁の時計を見たパパラチアは一転して眉根を寄せた。
「言っておきますが自習でしたからね」というルチルの弁解が耳に入らなかったようにパパラチアは「後でジェードに謝らないと」と呟き、夏制服に着替えると、軽く整えて無造作に落ちていた鞄を拾い上げて部屋を後にした。
己の奥に巣食う薄暗さを恥じた。
[chapter:#2-1]
保健室には備え付けのベッド以外にも特に配慮を要する生徒のための分室がある。
手前はほぼ札が下がっている。これはルチルと同級で、勉学に恐ろしく秀でていると聞くが実際に顔を合わせたのは行事を含んで数える程しかない。真中は常に空室。そして奥は空いたり空かなかったりした。
ルチルにはそれが不思議だった。
保健室の諸々の決め事が頭に入りすっかり板に付き、ルチルの対応に余裕が生まれた頃、しょっちゅう生傷を作っては転がり込む上級生を相手にその話を振った。
「居ないときはどうしているのでしょうね。まだ顔を見たことがないので、先生がいらっしゃらない時にもし運び込まれても対応できるか不安で」
「それ目の前にいるけど」
「え」
「しかも毎週通ってるのに」
「え」
「おまえ、そんなので将来ヤブになるなよ」
にっ、と笑う不遜な上級生。それがパパラチアだった。
手当てを通して交流するうち、ルチルはパパラチアの才気と、彼女に自分にない特性の違いについて思いを巡らせた。
あの頃のルチルはしばしば級友から煙たがられていた。類稀な才覚を持つ子供たちの中でも自分がひときわ抜きん出ていると言う自負が邪魔をして、それでも取り成そうとする級友のありがたさを過剰に拒絶し、妙に張った意地が他者を遠ざけていた。
パパラチアは何もかも違った。身体を動かす方が性に合うと言いつつ芸事や勉学を如才なくこなす。それでいて誇示せず、賛辞をさらりと受け流し、ときに相手を立て、失敗をも魅力にしてしまう術を体得していた。
目先の成果を褒めそやすのは、池に咲いた蓮華が綺麗だ綺麗だと騒いでいるだけに過ぎない。真の価値はぬかるみに張り巡らされた根にある。そして才能は疎ましがられる棘ではなく花に変えてこそ真価を発揮するのだと、高慢と孤高と孤独とを綯い交ぜにしていたルチルの目の前に、ある種のあざやかな天啓として示された。
ルチルが丸くなったと評されるまで長い時間を要しなかった。
代わりに、パパラチアと保健室の外で会う時間が増えた。
パパラチアは目を離すと誰彼構わずじゃれあうのが常であったが、裏腹に、身体に疾患を抱え、きっかり決まった時間に飲まなければならない薬が山とあった。そのくせ、ずぼらが祟って体温計測も怠るどころか薬の存在すら抜け落ちてしまう。長期的な計測と観察を得意とするルチルが見かねて、口酸っぱく促すうちに、パパラチアの世話係としての認識が広まった。
労いの言葉を掛けられることもあった。ルチルからしてみればなぜ大変なのか分りかねた。パパラチアのくるくる変わる気紛れさ、ときおり突拍子もないことを言い出すのにはたしかに閉口させられたが、嫌っているかと問われればむしろ逆だった。柔らかな布に包まって安心できるような快さを手放すなど、ただの一度も考えなかった。
「勉強ばっかで飽きないの?」
保健室での待機時間を惜しんで本に向かっていると、唐突に質問が飛んで来た。パパラチアが長机の向かいから、じっとこちらを見つめていた。
「ちっとも飽きませんよ。知らないことを知るのは面白いですし、いつか、誰かを助けられるかと思うといくらでも頑張れます。もちろんパパラチアも入っていますから安心していいですよ」
不意にパパラチアの顔から笑顔が消え、真面目な顔つきになった。目は射竦めるような鋭さを纏い、ぬうっと手が伸びてきたので、ルチルは恐ろしくなって反射的に目をつぶった。しかし、つむじに降って来たのは掌の優しい感触だった。
「頼もしいお医者さんだ」
後々振り返ると赤面するしかない。
それほどに、パパラチアは自らの役回りを楽しみながら演じ、それを気取られぬくらい聡かったのだ。
ルチル自身の才能の開花も目覚ましく、しばしば校外の学びの場に出向くことが増えた。そこでの出来事を土産話としてパパラチアにしてやると、実に興味深そうに聞き入り、手放しで喜ぶのでルチルは面映ゆくなった。あまりにも外のことに熱中しすぎて傷つけていやしないかと無自覚のうちに顔色を窺ったが、満面の笑顔に何の含みもないことにその都度胸を撫で下ろしていた。
ルチルの栄進の反面、パパラチアの通院の回数が漸増していた。級友たちには変わらずの気安さで接していたものの、騒ぎの輪に入らず独りで居る選択をとっていると気がついた。そしてそんな時はより一層憂いの影が深いことも。
だがそれすらも自分一人のみが垣間見る彼女の思慮深さとして瞼の裏に納め、無邪気に悦に浸っていた。
自分勝手な幻想に好きなだけ溺れられていた、実に馬鹿馬鹿しく、甘やかな季節だった。
[chapter:#2-2]
中庭でパパラチアが級友の中心で戯れている。高く結われた髪が別の生き物のように躍動するのを、ルチルは持ち場の保健室からぼんやりと眺めていた。
前触れはなかった。
パパラチアの長躯がくずおれ、受身も取らずに地面に叩きつけられた。ルチルは突っかけのまま駆け寄った。身体はぐったりとして、呼吸はままならず、頰は紅潮し、運動で生まれた熱を帯びたままであるのに、瞼はきつく閉じられていた。
処置が良く、大事には至らなかったが、様子を見るために入院を余儀なくされた。
その場にいたルチルには医師からの説明があったものの、元来が原因不明ということもあり、多くは語られなかった。
[chapter:#2-3]
半月後、ようやく病院への見舞いが許可された。ゆるやかな坂を上る。白い煉瓦道の両脇を若葉が鮮やかに彩っていた。
正面から下りてくる母子がハナミズキの花弁を拾い集めては海風に攫わせていた。風に翻った花弁の一枚がルチルの肩を掠め、地面に舞い落ちた。
生命にとり最大の関心は、現在を生き抜き未来へ継承することで、それらの用を満たしたか成せなければ消える定めだ。彼女が両肩に背負わされているものは、有り体に言えば不運でしかなく、誰の手にも負える問題ではないことくらい、もう何遍も言い聞かせてきた。それが性懲りも無く、むくむくと迫り上がってくるのだ。
なぜ、この瞬間、その役がパパラチアでなくてはならない?
透き通るような初夏の青空に、昼の半月が嘲笑うようにルチルを見つめ返した。
ルチルは紙束を放り込んだ鞄の底をまさぐった。目当ての小箱を探り当て、今一度中身を検めると、小走りに急いだ。
病室を訪ねると、パパラチアは目を丸くした。
「授業の教材? 部屋に適当に積んでおけよ。来週には戻るんだから」
「じきに定期試験です。時間は待ってくれません。週末で追いつかないと」
「わかったわかった。読んでおく。おまえはもう帰れよ」
ルチルは寝台の隣の古い椅子に腰掛けて、見つめ返した。
「そんな可愛い顔しても駄目」パパラチアは少し目元を綻ばせた。
「明日、医学校の見学で早いんだろ」
ルチルは唇を噛んで下を向いた。それは誰にも言っていないはずだった。
「わたくしは、あなたが時々こわい」
「なぜ」
パパラチアは変わらず微笑んでいる。
「笑っているのに遠いところにいるような気さえします」
「すっからかんってことか? 内臓が全部やられちまったから」
「内臓が全部やられてしまう前に、わたくしにあなたをください」
パパラチアの白く綺麗な歯が見えた。何かを言いたくて口を開いたのかもしれなかった。
ルチルは寝台に乗り出して、小箱を開け、中の真っ赤な飴玉をパパラチアに口移しで含ませた。無言の引っかき合いやせめぎ合いの内に寝台が激しく軋む。苦しげに喘ぐ彼女の口の端から、甘い唾液が流れるのを舐めとった。飴の甘さと血の味が脳の奥を奇妙に痺れさせた。
「俺を困らせて嬉しいのか」
問いには答えられなかった。
「後生だから良い子にしてくれ」
パパラチアの指がルチルの腕を掴む。もっと力を込めても良い。込められなくても拒絶のやり方は他にもある。けれどパパラチアはそれを選ばないでいる。
「乱暴は謝ります。でもわたくしの気持ちは変わりません」
パパラチアはふっと全身の力を抜いて、寝台に倒れこんだ。
「俺にとってはルチルの方がよっぽどこわいよ」
帰路の間、ルチルは俯いて腕に残った五指の赤い痕が引いていくのを見てばかりいた。
途中、鞄がやけに重く感じられ、本来の目的を達しないままだったことに気がついたが、到底引き返せる気分ではなかった。
パパラチアは次の週から学校に復帰した。テストは「さんざんだった」と言いながら優秀者の欄に名を連ねたので、皆から手荒い賞賛を受けた。
何もかも元どおりだった。
養護教諭から、もう分室には行かなくて良いと告げられた。ルチルは無視して会いに行った。
パパラチアが学び舎を去ったのはその次の日のことだった。
[chapter:#3-1]
あなたは恋をしたことがある?
《ダイヤモンド》は新入りの案内を買って出て、校内を歩いていた。
ないの? そう。そうよね。なかなかいい人なんていないもの。
あら、初めて会ったひとに急にそんなこと訊くなんて、失礼だったわよね。ごめんなさい、許して。
え、そういう僕にはいるのかって? 女の子って、こういう時ずるいから、居ないって答えちゃうのよね。また謝っちゃうわ。許してね。
でもね、ここではあんまりこういう話はよした方がいいわ。
じゃあなぜ自分には話してるのかって? それはもちろん、本当の新入りさんとしか話せないからよ。ここで話すことは、表立って話さないけど、みんな知ってる、暗黙の了解ってやつね。だから、『そのとき』が来るまでは、絶対、大っぴらには話さないの。
重くるしかったり、恥ずかしい話って、そうでしょう?
金剛先生は僕たちの純粋さを認めてくれたから宝石の名前をくださるの。
純粋さの象徴たる僕たちは、誰かに愛してもらえたり、誰かを愛せるように育てられる。けれど、その気持ちをここに暮らしているお互いに向けるのは、御法度。僕らという器の不完全さのもたらす欠陥ね。本当なら違うところに届けるべきだもの。
こんな気持ち、なんて言うのかしら。やっぱり、恋と呼んでも良いのかしら。
金剛先生が咎めるようなことはなさらないわ。これは僕たちのただの心がけなの。心配いらないわ。それに大抵はすぐ自然に消えてしまうから。お注射だって、打った時は痛くても、やがては消えてしまうでしょう?
いつかここを離れて、もっと大きな流れの中に生きるようになったら長くは育たない。
だったら、初めからないものとしてやりすごしたらいい。
でも、押し殺したままやり過ごすには、ここでの時間はあんまりにも長すぎて、耐えきれなくて、壊れそうになってしまうかもしれない。
それが、『そのとき』。
そのとき、僕たちは結婚の約束をするの。
今時分の頃、結ばれたい二人で誰にも見つからないように山の裏の白亜のチャペルを鳴らしに行くの。
それからどうなるかは、その時に教えてあげるわ。
ああ、ここが最後の部屋よ。応接間ね。
暖炉のうえにかわいいポットがあるでしょう。あの中にはボンボンといって、まん丸の飴の中にお酒が入っているお菓子が入っているの。赤くて、つやつやしていて、とろみがあって、とても甘くて、頭の芯がふやけるようなのですって。
二人で食べればきっと美味しいわ。もしこれがご褒美なら、どんなお願いごとも聞いてあげられそうなくらいね。
休み時間が終わるわ。僕たちも戻りましょう。
[chapter:#3-2]
後頭部がかくんと何かに激突した痛みでパパラチアは飛び起きた。さすりながら辺りを見回すと、校庭の端に設えられた四阿に座っていた。とうとう寝ぼけて学校まで戻ったかと焦っていると、眉間をピンと人差し指で跳ねられた。
「おはよ」イエローダイヤモンドはパパラチアの隣に腰掛けた。
「ちっとも痛くないだろ?」
「今ほどさっさと醒めたい夢もない」
「ご挨拶だな」
「夢から夢をはしごさせられて疲れきった」
「前の夢には誰が出てきた?」
「お前の真ん中の妹と誰か」
「妹に手を出すのは許さん」
「おまえら姉妹のややこしい愛憎劇に巻き込むんじゃない」
「俺はノータッチだぞ」
「どうだか。助長させてんだろ」
「口の悪い。可愛いルチルが来ないからってお姉さまに八つ当たりするんじゃない」
「その点はむしろ有難いかもしらん。少なくともいまは」
「ほう」イエローがまじまじと見つめる。「重症だな」
「笑いごとじゃない」
「何を思い詰めることがある? 重くて良いのは愛とおっぱいぐらいだろ。お前はぜいたくだよ」
「体重だって生理だって本だって重いのはごめんだ」
「じゃあおっぱいをよこせ。俺は断固、可愛い子の味方」
イエローはパパラチアがいつのまにか手にしていた紙束をつぶさに調べ始めた。
長辺がきちんと揃えて綴じられた紙束は小冊子ほどの厚みがあり、さしずめ要点を細大余さず網羅した参考書の相を呈していた。
「ああ、この講義。ルチルも好きだったな。飛び級のうえ最前列で澄ました顔で受けやがって」
イエローが苦笑いしながら人差し指で几帳面な字の羅列を一行ごとに辿ると、四肢が荒縄で縛られるような痛みが走る。ルチルの肉筆の文字が空間を漂い、読み聞かせる声が肌を剣のように突き刺す。
鳩尾を押さえ、脂汗をかいて苦悶していると、
「持病なんぞ平気の平左なおまえが、苦しそうだな。なんだったら、愛とやらの方もこっちで引き取ろうか」
と悠長な声が降ってくる。
「この変態」
「どっちが」脇腹を小突かれる。
「俺は可愛い年下を失うのが何より悲しい。ことわっておくがお前じゃない」イエローは大仰に天を仰いだ。
知ってる、とパパラチアは返してやりたかったが、喉が動かなかった。
「お前はルチルに何をしてやれるんだ」イエローの瞳が強く光った。
「お前の腐った五臓六腑と引き換えに、何を差し出してやれる」
日頃人畜無害な顔をしておきながら、詰め寄ると凄みが出るのは血筋か、と痛みで朦朧とする頭で考える。
「その前に一つ聞かせてもらいたい。
おまえらは自分たちが純粋無垢な捧げ物であることにご執心なようだが、本気で信じているのか。だとすればおめでたいよ。
俺がルチルに与えられるのは、あいつをこの手でかっ攫うことだけだ。
それが不純だろうが構わない。邪魔をするな」
イエローは微笑してパパラチアの胸を手で突き放した。その衝撃で指先、腕、肩と嫌な音を立てて罅が入る。
みるみる内に全身が割れた。肉が裂けたのだから血飛沫が出るはずが、断面は貝殻のような割れ口から迸った稲妻のような黄の閃光がパパラチアの目を焼いた。
そうか。だからおまえはイエローダイヤモンドなんだな。
意識が暗闇の底に落ちた。
[chapter:#4]
潮騒の遠くから、乾いた石階段を、一段一段踏みしめて登る音が聞こえて来る。まどろんだ頭が少しずつ動き出すにつれ潮の香りと埃っぽさが鼻をくすぐる。
鎮痛剤がまだ残っているのか、いつもなら目醒めた瞬間から付きまとう不愉快な痛みはなかった。夜明け前はいっとう冷える。ぶるりと身体を震わせると、肌にあたたかく触れるものがあった。
「ルチルか」
「はい」
辺りを満たす薄い光が、打ち捨てられたチャペルの白壁に反射して、ルチルの輪郭を淡く浮かび上がらせていた。
「よく眠れたようですね」
「そう?」
「ええ。顔色がとても良い。これまでにないくらい」
ルチルは肩で息をしている。いつものヒールとタイツを履いて、制服を着込んでいた。人一倍出かけるのだから、他の靴や服だの、しこたま持っているだろうに。靴は泥が跳ねていて、タイツに葉がくっついていた。きっと足指も痛むことだろう。いつも丁寧に梳っている髪も、ついぞ見たことのない汗で崩れ、額に張り付いていた。自責の念が烈しくパパラチアを苛んだ。
もっと早くに、もっと強く拒絶の言葉を口にしていれば、ルチルは道を過たずに済んだのだ。
こんな所まで連れてきてすまない、と素直に頭を下げられたならどれほど救われただろう。
だが今更赦してほしいとは言わない。自分はイエローを割ったのだ。
パパラチアはハンカチでルチルの顔を丁寧に拭って、手櫛で髪を直してやった。それから、急に思い出したように胸ポケットを押さえると、いつのまに、かすみ草が入っていたので、抜いて、ルチルの耳に掛けた。
この世で一番うつくしい花嫁がそこにいた。
「よく似合うよ」
「ありがとうございます」
「俺はルチルに甘えすぎたな。最後にしてやれることがこれくらいしかない」
「いいえ。とても嬉しいのです、わたくしは」
ルチルは首を振った。
「花嫁役はおまえがやるだろ」
ルチルはこれにも首を振った。
「二人で、ですよ」
パパラチアは頰をかいた。想定と少し違った。
「わかったよ」
病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも。
二人はリネンのベールに包まって、指を絡げて、額同士を合わせて、ひそひそと形ばかりの決まり文句を述べた。
二人で鳴らしたチャペルの音は、夜に沈んだ空と海を朝に染め変える合図のようだった。
二人は、ベールを被ったまま、ようやく頭をのぞかせた朝陽に照らされていた。
「夜明けは眩しいですね」
「徹夜明けだと余計に沁みるよ」
「またそんなことばかり言って、こんなときに」
ルチルはそっぽを向くのを見て、パパラチアの心が狂おしくざわついた。知らず知らずのうちに押し込めていた情欲が吹き出しそうになる。初めて死ぬのが怖くなった。
パパラチアの内情など一切気にかけず、ルチルはリネンを強く握り込んで白くなったパパラチアの指をそっと包みこむ。
「ひどい震えですよ。やっぱり寒いですか」
「いや。臆病になってな」
口にしてから、ルチルがあまりにも穴のあくほどパパラチアを見つめるのに気がつき、慌てて取り繕う。
「冗談だよ」
「可笑しくなんてありません」
即座にルチルは返した。
「あなたの本当の言葉を聞いたのが初めてだったものですから」
「俺ってそんな嘘つきか」
「少なくとも、もっと貪欲であるべきかと」
「おまえと正面切ってぶつかるとしても?」
途端にしおらしくなるルチルに、この子は見ていて飽きない、と暖かく朗らかな気持ちが流れ込む。
「あなたがゆるがないと勝手に思い込んでいた自分が恥ずかしい」
「なんだ。まるで俺が百年も千年も生きてきたようなことを言うじゃないか」
「じっさいの所、ずうっと長いこと、あなたといるような気がしているのですよ。暦で数えてきたよりも、もっと」
ルチルの横顔を光の筋がつうっと通ったので、パパラチアが拭った。
「この鐘の音がずっとわたくしたちの中に響いていれば、わたくしたちは死なないのかもしれませんね」
ルチルの言葉はパパラチアには不思議に聞こえたが、特段問い直す気にもなれず、頷いたきり何も言わなかった。
パパラチアとルチルは、鐘をもう一度鳴らした。しきたりでは三度と決まっていたが、構うことはなかった。二人の気のすむまで、何度も鳴らせばよかった。鐘の音がどこもかしこにも響き渡ったことを確かに受け取ると、どちらからともなく唇を重ねた。飴の作り物めいた甘さを無常のよろこびとして、深く、互いをほしいままにした。
[chapter:#5]
その日は仕舞ったばかりの冬服を引っ張り出して、半分夢心地のうちに着替えた。
食堂に駆け込むと、朝に弱いだのと小突いてくるモルガも、平生以上に静かなゴーシェと一緒に悄気ていた。
やがて号令が掛かって食事が始まった。あたたかいパンを齧り、はりはりとした野菜を頬張る音、食器同士の当たる音だけが硬く響いた。誰かが朝食の感想を気晴らしに言い、誰かがほっとしたように返すものの、言葉は空中に奇妙になげられたまま終わるのだった。
食事が済むと金剛先生が現れた。空気がぴんと張った。教科書を読み上げるいつもの朗々とした声で、『葬式』が行われる旨が淀みなく説明されるのを、どこか上の空で聞いていた。やがて、皆が揃って返事をして席を立ったので、慌てて倣う。
聖堂に全員が整列する。式次第はあらかじめ定められ、滞りなく進む。金剛先生が両手を掲げる合図に合わせ、少女たちは足を肩幅に開いた。一拍置き、伴奏のない合唱が始まる。和声は完璧であり、まじりけのない純粋さによって織りなされ、情緒に揺らぐことなく高い天井を昇ってゆく。その様を、旋律に加わることも忘れ、陶然と見守っていた。
午前は自由時間と決まっていたので、規定の時間まで思い思いの時を過ごした。誰の輪にも入るのを避けていたら、忘れ去られたような四阿まで歩いてきていた。工芸の得意な生徒が去り、手入れがされなくなって久しいという。
薄暗がりを覗き込むと、膝を抱えこむ者が長い前髪の向こうからこちらを品定めるように見据えていた。あまりに恐ろしく異様なさまに、息を詰め、背を向けて一目散に走り去った。
だが、息を切らして走っていても、食堂でも別の組の合同授業でも見かけたことがない顔だったのが心に引っかかり続けていた。
再会の機会はすぐに訪れた。離れとして作られた植物園の門の前に立つユークレースから手向けのための白百合を受け取ろうと近づくと、彼女が先にいた。
明るいところで目の当たりにした彼女は、包帯を二の腕まで長手袋のように巻いていた。皮膚から滲み出た液が斑らに黄色く染めていた。立ち尽くす彼女を、ユークは困惑して見つめている。手がうまく曲がらず、花が受け取れないのだ。
彼女に近づくと、少し饐えたような匂いもして、改めて保健係の不在が身に染みた。しかし、こんな時、あの豪胆な年長者ならば、今抱いたような気持ちは決して噯気にも見せないはずだった。
「ユーク、この子のぶんは僕が貰うよ」
二人はその言葉で初めてこちらに気がついたようだった。呆気にとられるユークに、包帯の少女は顎をしゃくった。
「早く行けよ」
ユークレースはややあってから済まなそうに百合の花を二人ぶん渡すと、一礼し、自分の花を脇に抱えて小走りで駆けていった。強い香りが鼻腔を満たした。鼻を啜る音だけが遠くから聞こえた。
「あいつだって辛いんだろう。長い付き合いだったしな。さあお前は先を歩け。俺に触ると病気が感染る。だから俺は最後だ」
有無を言わさない剣幕だったので承諾して数歩行った。
しかし、程なくして引き返して「ねえ」と声を掛けた。
包帯の少女は前につんのめった。体勢を立て直すと、いささか不快さを強めて眉根を寄せた。
「ねえ。少しだけ話してよ。このくらい空けたらいいでしょ?」
返答はなかったので続けた。
「君に宝石の名前があるの?」
「俺には仮の名前しかない」包帯の少女は低い声で言った。
「金剛先生が見つけてくれるというが、どうせ俺に似合うものなどない。
まあ、少なくともあの二人の名前のどちらかではないのは確かだ。あれを継ぐような優秀な奴はしばらく現れやしない。
新入りのお前だって、その程度のおつむじゃ諦めるんだな」
「二人に叶おうだなんてぜんぜん思ってないよ」
包帯の少女は胡乱げな視線を投げる。
「ルチルは頭がいいし、キズの手当てもして貰った。パパラチアも格好よくて、たくさん遊んで貰った。
二人とも、いつも皆のために一生懸命だった。
僕は二人が好きで、みんなもそうだった。
でも、それは僕たちから見たほんの少しだけの姿なんだ。
二人だって、違う誰かを愛したり愛される未来があったのかもしれないけど、でも二人はお互いのためだけにある世界をめざしたんだ」
建物の古い木戸に手を掛けた。
背後の足音が止まったので振り返ると、包帯の少女は顔を赤らめていた。
「そんな恥ずかしい科白、ダイヤにでも吹き込まれたのか。洒落臭い。二度と帰らない、死んだも同然のやつらのどこに肩入れする余地がある」
そう言われ、しばし最近の出来事を振り返った。そういうことも彼女に言われたのかもしれなかったが、どうにも記憶が混在していた。
「わからないよ」と答えた。
「でも、二人はここで死んだかもしれないけど、死んではないんだ。それだけはわかるんだ」
独りでにこぼれた言葉を咀嚼して、微笑んだ。
「君が僕より、うんと長く二人を知っている。それだけが理由でいいよ」
エントランスホールで戻る途中のユークとジェードとすれ違った。二人して目も鼻も赤く腫らしていた。
植物園はむせかるような湿気に守られていた。舶来の奇妙な植物が埋め尽くす中、白い棺が二つ並んでいた。傍に金剛先生が控え、静かに撫でていたが、二人の姿をみとめると、「よく来た」と立ち上がって出迎えた。
「ともに祈ろう。ここに眠る二人の旅路の災いが除かれ、幸いの内に降り立てるように」
ひび割れて血の滲む彼女の指先に、百合の花をそっと握らせた。小さく制止の声が飛ぶのも構わず包み込んだ。
もしも何か悪いものが己の皮膚に移り住んだとして、それが構うものか。
骨張った手の温もりをガーゼ越しに感じていると、手の中の小刻みの震えが収まっていく。
祈りの声を聞きながら、どこか遠くでたのしげに囀る小鳥の姿を瞼に描いていた。
[chapter:Epilogue]
ルチルは医務室で何日振りかの大掃除を敢行していた。忙しさにかまけて用具が散乱しているのをほったらかしにしていたのを、ようやく手に付けたのだった。進めていくうちに生半可な気持ちで手を出した後悔の方が強くなり、整理整頓に関しては自負していたのに、やはり戦争は日常の敵であるという認識を深めた。
壁際に設えた棚のもっとも床に近い箇所に取り掛かったとき、今まで見たことのない抽斗を見つけた。
そこからは紙束が二つも出て来た。誰かの手により、小綺麗な表紙を付けられ、丁寧に糸でかがられていたので、紙束というよりは本だった。単なる書き損じの束であれば迷わず再生用に回したが、装丁の丁寧な仕事ぶりに興味を惹かれて中を検めることにした。紙はもろく、頁同士がみっちりと付いていて、めくりにくいことこの上なかった。
濃い枯葉の色をした表紙は、表題と図表を交えて章立てて仔細に解説された学術書の体をなしていた。だが、それがどの分野を説いているのかはさっぱりわからなかった。
もう片方の表紙は曇り空の下で眺める海の色をしていて、ある種の娯楽本には違いなかったが、冗長で退屈な文で目が滑った。
「そんなところで何してる」
低い声が急に耳許を擽ったので「きゃっ」と声を上げると、案の定、彼は悪戯っぽく橙の瞳をきらきらと輝かせていた。
「片付けの途中で本に手を伸ばすともう駄目だよな」
「やめてください。割れたらどうするんですか」
「おまえに治してもらうのさ」
「まだ上達途中なんですからあてにしないでください。それにわたくしのことは誰が治すのですか」
「誰かなあ」
もう、いい加減な、とむくれていると、持っていた本をひょいと取られる。
「何だこれは。初めて見るな。もう読んだのか」
「ええ読みました。一つは勉強の本で、もう一つは……」
ルチルはどう言っていいものかしばし思案して唸った。
パパラチアはそんなルチルを面白そうに見つめながら、本を手に取って読み始めた。
【終】